製菓の意味とその手立て:米澤穂信「倫敦スコーンの謎」

米澤穂信による同名の短編集に収められた「倫敦スコーンの謎」は、小佐内ゆきが調理実習で遭遇した少し奇妙なできごと――沢海という女子生徒が、しっかり手順や分量を守ってつくったはずのスコーンがなぜか生焼けになってしまった事件――をめぐるミステリです。
小佐内は小鳩常悟朗に助力を仰いだ理由について「たんに失敗の原因を知りたいからではない」と説明します。実際的な理由があるのだ、と。

「スコーンは沢海さんが作って、そのスコーンは失敗だったんだから、ふつうに書けば沢海さんが失敗したっていうレポートになる。だけどわたしは、沢海さんの手順にミスがなかったことを知ってる。そして本当の問題は、沢海さんのせいで失敗したっていうレポートを書いて、そのレポートがクラスで公開されたら……新しいクラスでの人間関係がちょっと困ったことになるかも、ってこと。沢海さんはプライドが高そうだからね」((米澤穂信著『倫敦スコーンの謎』, 東京創元社, 2026年4月, 160ページ))

このいかにも小市民的な説明にたいして小鳩は納得します。本作を含むシリーズ読者だってきっとそうではないでしょうか。そこには小市民と狼の匂いが漂っている。争いはできるだけ避けたい。必要以上の狩りはしたくないから、とでもいうような。

そして、いざ納得のいく謎解きがなされたあと、小鳩に「いったいどんなふうにレポートを書くのか」と問われた小佐内は次のように返答します。

「たとえば…自分の担当であるカナッペのことだけ考えていたのが悪かったです。班の仲間なんだから、もっと助け合うべきでした」((米澤穂信著『倫敦スコーンの謎』, 東京創元社, 2026年4月, 205ページ))

これは、正直いって奇妙ではないでしょうか? 少なくともわたしには奇妙です。スコーンが生焼けだったのと同じくらいには。だってこの程度であれば、小佐内は小鳩の力など必要としないのではないでしょうか? 現に小佐内はこの理屈をひとりで考えだしています。もしかして小鳩にたいして嘘をついているのでしょうか?

嘘と真実。建前と本音。見かけと中身。こうしたテーマはミステリでは王道といっていいでしょう。なにせ、この『倫敦スコーンの謎』という短編集じたいがそうしたテーマに貫かれているのですから。「桑港クッキーの謎」における盗作か否かという問題も、フォーチューンクッキーというモチーフも、それから見た目はしっかり焼けているのに生焼けのスコーンも、スコーンの本場はいったいどこなのかという話題も、それからそれから……。

そしていわずもがな、2人はこの先の未来に『夏期限定トロピカルパフェ事件』を控えています。あの夏の事件を見据えて『倫敦スコーンの謎』が執筆されたことは明らかです。

しかし……仮に小鳩へかけた言葉に嘘が含まれていたのだとしたら、なぜ小佐内は正直にいわなかったのでしょう。その理由が、まだいまいち判然としません。
彼女の持つ狡猾さ、慎重さゆえ? まあ、たしかに。うん。それも大いにありうるかもしれない。そう思わせるだけの心当たりを、読者はあまりにも多く持ちすぎている。
湧き出す恐怖と猜疑のこころをおさえつつ、この女子高生についてもう少し寄り添って考えてみましょう。小佐内は「倫敦スコーンの謎」のなかで、次のようにも語っていたのでした。

「沢海さんの手順にミスがないのなら、失敗したのは沢海さんだとは書けないって思ってた。万が一レポートが公開された時の、クラスの人間関係を考えるとね」((米澤穂信著『倫敦スコーンの謎』, 東京創元社, 2026年4月, 204ページ))

沢海さんの手順にミスがないのなら。おそらくですが、小佐内にとってなにより大事なのはこの仮定の部分です。((その続きである「失敗したのは沢海さんだとは書けないって思ってた」も、厳密に読もうとするならなんだか不思議な文章です。これだともし手順に看過できないほどのミスがあったのなら、沢海の責任だとレポートに書いた可能性もあるみたいに読めます。本文中で見たように実際はそうしなかったどころか、そんな気持ちすらなかったようですが……本当か?))

たとえば真相が、「沢海に恨みを持っていた人間がスコーンを入れ換え」だったと仮定しましょう((入れ換えがあったかどうかについてはp.174で否定されています。じゅうぶんに議論を尽くしたかというと若干疑問は残ります……が、このエントリ中にあるとおり、おそらくその点を小佐内は最初から問題にしていない、というのがわたしの読解です。))。その事実じたいにたぶん小佐内は興味がない。犯人がだれかも二の次なのかもしれません(真相によっては復讐に打って出る可能性もありますけれど……)。

失敗した原因そのものはわからなくてもいい。だけど、「手順に間違いがなかったかどうか」だけははっきりと知りたかった。だからこそ、わざわざロンドン風のスコーンを提供し、それを目の前で調理してくれる店まで赴いたのでしょう。

では、なぜ「手順」がそこまで大事だったのか。本作の中で小鳩が次のように語っていたことを思い出しましょう。

ぼくはお菓子に詳しくないけれど、小佐内さんと行動する中で、いくつか学んだことがある。その中の一つが、お菓子作りとは科学であり、再現性があるのだという原則だ。間違った手順で作れば、失敗する。手順が間違っているのに、たまたま成功したりはしない。失敗の結果が想定外のおいしさや食感を生み出すこともあるらしいけれど、それだって、当初のレシピからすると失敗の範疇にあることは変わらない。((米澤穂信著『倫敦スコーンの謎』, 東京創元社, 2026年4月, 155ページ))

おそらく小佐内にとってのお菓子とは、食べると美味しくて幸せな気分に浸らせてくれるものであると同時に、ひとつの精神的な寄る辺なのではないか。正確に分量と手順を正しく守りさえすれば、必ず正解にたどりつけるもの。
そしてこれはあきらかに『秩序』についての話です。ミステリにおいて探偵が回復することを期待されている類のものにも似た。
「秩序」を守るためにこそ、探偵の力、小鳩の力が必要だった。((それとも小鳩はたんなるダブルチェック要員だっただろうか? いや、とうぜん小佐内は小鳩が謎解きに夢中になるだろうとほとんど確信と半ば諦めの気持ちを抱いていたに違いない。))「倫敦スコーンの謎」を、わたしはそうした小説だと受け取りました。

それで……けっきょく、「倫敦スコーンの謎」において小佐内は小鳩に嘘をついたのでしょうか。
たぶん、部分的に。もしかしたら、小佐内じしんも嘘をついたとまでは考えていなかったかもしれません。彼女の視点から物語が語られない以上、確定的なことはいえないままです。

「ありがとう、小鳩くん。これで残るのは、最初の問題だけ」
最初の問題というと……なんだっけ。ぴんとこないでいると、小佐内さんはちょっと困ったように微笑む。((米澤穂信著『倫敦スコーンの謎』, 東京創元社, 2026年4月, 204ページ))

なぜ、小佐内は困ったように笑ったのでしょう。小鳩がいつものように謎解きそのものに熱中して、「レポートにどう書くか」という相談内容を忘れてしまっていたからに違いありません。((しかもそれがあらかじめ用意した嘘の言い訳だったから……とまで考えるとおそらく妄想の領域に足を踏み入れてしまいます。))

ここまで考えたとき、わたしはふたたび『夏期限定トロピカルパフェ事件』に思いを馳せざるを得なくなります。ああ、「倫敦スコーンの謎」の小鳩と小佐内の延長に、『夏期限定トロピカルパフェ事件』の2人がいるんだなぁということがはっきりと、そしてしみじみとわかってくる。

これはどう控えめに表現しても、タチの悪い嘘だ。……嘘つきだ((米澤穂信著『夏期限定トロピカルパフェ事件』, 東京創元社, 2006年4月, 224ページ))

 

こんなにも嘘ばっかりなんだもの。……わたしたちが「狐』であり「狼』だっていうのも、きっと嘘なんだわ。((米澤穂信著『夏期限定トロピカルパフェ事件』, 東京創元社, 2006年4月, 226ページ))

正直にいえば、わたしはもともと『夏期限定トロピカルパフェ事件』について、そこまで評価していませんでした。「ここまで人間はたやすく動かされるだろうか?」「2人の感情の吐露にうまくついていけない」。その疑念をどうしても拭いきれなかった。
短編集『倫敦スコーンの謎』はそうした不満にたいする、作者からの1つの回答でしょう。あの夏の事件へと至る2人の道行きを、あくまで短編ミステリの形式は保ちながら描いてみせた。
想像以上に難しかったはずです。「後出しの帳尻合わせでどうとでもなるだろう」だなんて読者を舐めた様子は感じさせない。そうした姿勢に、私は米澤穂信の作家としての矜持を見ました。

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