[{"content":" 開発元・パブリッシャー：SUPERTHUMb 1959年、イギリスはシーダーベールというおそらく架空の名前をもつ小さな地区の警察署に、交通事故の通報が入ります。電話を受けていた巡査が受話器を置くと、ちょうどそこへ男がやってきました。彼こそが『フレミング邸の殺人事件（以下、『フレミング邸』）』の主人公であり、プレイヤーは彼を操作し、検視官としてさっそく交通事故の調査にあたることとなるのです。\nシーンを探索してキーワードを集めて死因や犯人を特定するメカニクスや、「いったいなにがあったんだ？」と戸惑いと好奇心を覚えざるを得ない事件現場のビジュアル、次々と起こる事件に共通する人々や物々、調べるべき箇所のハイライト、そしてシナリオを区切るチャプター形式の採用といった特徴1から、『フレミング邸』は間違いなく『The Case of the Golden Idol（以下、『Golden Idol』）』の血を分けた子どもだといえます。\nとうぜん異なる部分もあります。たとえばヒント機能。『Golden Idol』では「1つか2つ誤りがある」とファジーなヒントをくれるだけでしたが、『フレミング邸』では誤りが3個以下であればそのものズバリの数字を教えてくれます。\nそのうえ3回以上まちがえたら、「いま見ているページに誤りがあるか」「あるのなら、それはどの部分なのか」まで教えてくれるようになる。さらにさらに、特定の問題に関しては「あそこを調べるといいよ～」的に段階的なヒントがもらえる……どころか、答えすらも教えてくれます。製品ページには、\nゲームがあなたの推理が正しいかどうかを教えてくれることはありません。2\nと、ありますが……たぶんこれは制作初期の仕様でしょうね。製品版では、問題が難しすぎて諦める可能性はだいぶ低いと思います。\n回答を3回提出しても不正解だった場合、誤答チェック機能が解放される。 © 2026 SUPERTHUMb Inc. 難問には段階的にヒントが設定されており、ある程度は自分で難易度の調節ができる。 © 2026 SUPERTHUMb Inc. ではだれでも挫折しないでクリアできるかというと……そうでもない。というのも、こういった調査と推理が主体のゲームはただでさえ地味なのですが、本作にはさらに法医学要素があるからです。\n馴染みのない単語を追って法医学書のページを行ったり来たり、血液検査の結果をサンプルデータと照らし合わせ、筆跡を鑑定するために英語の筆記体に目を凝らして、より詳しい薬物検査をしてもらうためにロンドンへ依頼書を作成して……と、本作は簡易なお仕事シミュレーター的側面も有しています。\nわたしはクリアまでに10時間ほどを要しましたが、地味にかゆいところに手が届かないUIもあいまってなかなか根気のいるゲームプレイとなりました。死体が多いときのワクワクと面倒くささが……拮抗している！　遊びとタスクの閾ってあいまいなんだよな。\nしかし『フレミング邸』をもっとも特徴づけているのは、本作が基本的に主人公の一人称視点で進行するという点でしょう（こういう書き方をするということは、つまり主人公以外の視点をとるパートもあるのですが）。\n『Golden Idol』は三人称視点に徹しているがゆえに、印象的なシーンを取り出してプレイヤーに提示しても違和感がありませんでした。しかし本作は視点人物が固定されているため、いくつかのシーンはイメージ映像として受け取るほかなくなっています。情報を集める前にもかかわらず、事件発生時の現場がプレイヤーに見えてしまっている。\n「現場を検証をして真相にたどりつく」というコンセプトに反してしまっているんですよね。この点は正直いってもったいない。通報によって駆けつけた警察官が死体を発見した時間まで現場の手がかりから推理しなくてはならない（！）このゲームとしては、やっぱりちょっと違和感が強いです。ただ、おそらく制作者も悩んだ末の実装ではないかな～という気はします。\nシナリオの核心部分については、ゲーム中でも「体験を損ねるから未プレイ者にはネタバレをしないでほしい」旨が述べられているので詳しくは触れられませんが、1つだけいうのであれば、物語としてはきちんとオチがつきます。「あとはご想像におまかせします」展開では終わりません。そこは安心してもいいです。\n総評にかかりましょう。\nストーリーを、ひいてはゲーム体験を支えるアイディアは良いと思います。あのアイディアによって『フレミング邸』がもつ短所のすべて……とはいいませんが、その多くをカバーできている。しかし、それでもなお不満はあります。コンセプトを突きつめて、もう少し全体の構成が練れていればもっと良い作品になった。そう思わせるだけのポテンシャルが感じられる。このあたり、たんなるプレイヤーでしかないわたしとしても歯がゆいものがあります。\nしかし、作品を評価するにあたってGoodかBadの2択であれば、わたしは前者を選びます。こうしたメカニクスのゲームを、リリース時から高品質な日本語訳で楽しめるのはとてもありがたいことです。『フレミング邸』はクラシックなミステリへのリスペクトとともに、小説でも映画でもない、ゲームだからこそ味わえる体験をプレイヤーに提供してくれるでしょう。\n『Golden Idol』の諸特徴については以下の記事を参考にした。千葉集, 「正解に三つの鐘が鳴る――プレイヤーを名探偵にするメカニクスについて」, 遊星歯車機関, https://note.com/planetary_gear/n/nd75f0dd32f06 , 2026-11-07閲覧\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nSUPERTHUMb, 「フレミング邸の殺人事件」, Steam, https://store.steampowered.com/app/3758950/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0%E9%82%B8%E3%81%AE%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6/ , 2026-11-07閲覧\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","permalink":"https://tano-shiina.com/2026/11/07/7ontgz9z/","summary":"\u003cfigure\u003e\n  \u003ca href=\"https://store.steampowered.com/app/3758950/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%82%B0%E9%82%B8%E3%81%AE%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6/\"\u003e\n    \u003cimg src=\"/2026/11/07/7ontgz9z/ogp.webp\" alt=\"『フレミング邸の殺人事件』ビジュアル\"\u003e\n  \u003c/a\u003e\n    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Idol』は三人称視点に徹しているがゆえに、印象的なシーンを取り出してプレイヤーに提示しても違和感がありませんでした。しかし本作は視点人物が固定されているため、いくつかのシーンはイメージ映像として受け取るほかなくなっています。情報を集める前にもかかわらず、事件発生時の現場がプレイヤーに見えてしまっている。\u003cbr\u003e\n「現場を検証をして真相にたどりつく」というコンセプトに反してしまっているんですよね。この点は正直いってもったいない。通報によって駆けつけた警察官が死体を発見した時間まで現場の手がかりから推理しなくてはならない（！）このゲームとしては、やっぱりちょっと違和感が強いです。ただ、おそらく制作者も悩んだ末の実装ではないかな～という気はします。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　シナリオの核心部分については、ゲーム中でも「体験を損ねるから未プレイ者にはネタバレをしないでほしい」旨が述べられているので詳しくは触れられませんが、1つだけいうのであれば、物語としてはきちんとオチがつきます。「あとはご想像におまかせします」展開では終わりません。そこは安心してもいいです。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　総評にかかりましょう。\u003cbr\u003e\n　ストーリーを、ひいてはゲーム体験を支えるアイディアは良いと思います。あのアイディアによって『フレミング邸』がもつ短所のすべて……とはいいませんが、その多くをカバーできている。しかし、それでもなお不満はあります。コンセプトを突きつめて、もう少し全体の構成が練れていればもっと良い作品になった。そう思わせるだけのポテンシャルが感じられる。このあたり、たんなるプレイヤーでしかないわたしとしても歯がゆいものがあります。\u003cbr\u003e\n　しかし、作品を評価するにあたってGoodかBadの2択であれば、わたしは前者を選びます。こうしたメカニクスのゲームを、リリース時から高品質な日本語訳で楽しめるのはとてもありがたいことです。『フレミング邸』はクラシックなミステリへのリスペクトとともに、小説でも映画でもない、ゲームだからこそ味わえる体験をプレイヤーに提供してくれるでしょう。\u003c/p\u003e\n\u003cdiv 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Stranger）』には2004年から2024年にわたって発表された短編が12作収められている。\n季節が冬の話だけでなく、春や夏の話も収録されているにもかかわらず、どの短編からも寒々とした曇り空の印象が離れないのは、何も地球でいちばん寒いといわれる街・シベリアのオイミャコンを舞台にした作品「極寒の街」が冒頭を飾っているから、という理由だけではない。\n安楽死を請け負う末期がん患者の復員軍人たち。ブラックな労働環境に苦しむ東京の会社員。急に預言者として目覚め、暴力を振るうようになってしまった夫からの逃走。コンビニに立ち寄った母娘は運悪く強盗に出くわしてしまう。そして、生き延びてしまったホロコースト。\n語られるできごとはけっして陽気とはいえない。貧しく、ろくな仕事にもありつけず、猥雑で劣悪な環境で日々を送る人も多く登場する。\nにもかかわらず、エリカ・クラウスの文章――を日本語に移し替えた古屋美登里による訳文――には、不思議と清潔感が漂う。12の短編はすべて一人称で書かれていて、語り手の年頃もバラバラだ。なるほど、どの人物もクソみたいな現実に押しつぶされそうになっている。でも、侵されてはいない。収録されたどの作品もディテールが豊かなのは、語り手たちが皆、厳しい現実にあっても外界を拒まずにいてくれているおかげでもある。\nいや、\u0026ldquo;公平で冷静なレビュー\u0026rdquo; （といったものが実在するとして）の雰囲気を壊す危険を承知でいうと、個人的にはもう少し乾いているほうが好みではある。時おり挟まれるユーモアのセンスも、「ちょっとアメリカ(・・・・) すぎやしないかな」と思わなくもない。クラウスはアメリカ人だから別になにも悪くないのだが。\n厳しい現実を描くにあたって筆致まで重たくしない――そのような選択こそが、おそらくクラウスの小説家としての基本的な態度を決定づけているのだろう。それは本書のエピグラフに掲げられたアナイス・ニンの言葉からも察せられる。クラウスにとって物語とは、人を苦しみから救うものであるべきなのだ。追い立てられ、決断を迫られてしまった人間を、この作者は突き放したりはしない。ユーモアそれ自体、現実に抵抗するための手立ての一つだろう。\nしかし、それでもわたしたちは間違った道を選んでしまう生き物だ。いつだって誇り高くいられるわけではない。当然、エリカ・クラウスもそのことを理解しているのだろう。本作品集でとびきり重い余韻を残す「ユダヤ人」を読めば、きっとそれがわかるはずだ。\n下した決断を後悔する日が来ないだろうか。冒頭に収められた「極寒の街」を読んだときから、折りに触れて、その心配は頭に浮かんだ（そしてそのとき、ほんの束の間とはいえ、わたしはこれが小説だということを忘れていたのではなかったか）。\nきっと来るだろう。往々にして人生はそういうものだから。\nしかし、それでも。本作品集の末尾には「心臓と大血管の損傷」という短編が収められている。これを読めば、エリカ・クラウスは人の弱さや現実の辛さを見つめるけれど、それらをいたずらに強調したりしない小説家だということが、きっとわかるはずだ。\n","permalink":"https://tano-shiina.com/2026/10/31/bi4qn024/","summary":"\u003cfigure\u003e\n  \u003ca href=\"https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=1246\"\u003e\n    \u003cimg src=\"/images/posts/bi4qn024/ogp.webp\" alt=\"エリカ・クラウス『だれか、わたしを助けて』書影\"\u003e\n  \u003c/a\u003e\n    \u003cfigcaption\u003e著：エリカ・クラウス , 訳：古屋美登里, 出版社：株式会社亜紀書房, 装丁：名久井直子, 装画：waca, 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\u003c/ruby\u003eすぎやしないかな」と思わなくもない。クラウスはアメリカ人だから別になにも悪くないのだが。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　厳しい現実を描くにあたって筆致まで重たくしない――そのような選択こそが、おそらくクラウスの小説家としての基本的な態度を決定づけているのだろう。それは本書のエピグラフに掲げられたアナイス・ニンの言葉からも察せられる。クラウスにとって物語とは、人を苦しみから救うものであるべきなのだ。追い立てられ、決断を迫られてしまった人間を、この作者は突き放したりはしない。ユーモアそれ自体、現実に抵抗するための手立ての一つだろう。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　しかし、それでもわたしたちは間違った道を選んでしまう生き物だ。いつだって誇り高くいられるわけではない。当然、エリカ・クラウスもそのことを理解しているのだろう。本作品集でとびきり重い余韻を残す「ユダヤ人」を読めば、きっとそれがわかるはずだ。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　下した決断を後悔する日が来ないだろうか。冒頭に収められた「極寒の街」を読んだときから、折りに触れて、その心配は頭に浮かんだ（そしてそのとき、ほんの束の間とはいえ、わたしはこれが小説だということを忘れていたのではなかったか）。\u003cbr\u003e\n　\u003cbr\u003e\n　きっと来るだろう。往々にして人生はそういうものだから。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　しかし、それでも。本作品集の末尾には「心臓と大血管の損傷」という短編が収められている。これを読めば、エリカ・クラウスは人の弱さや現実の辛さを見つめるけれど、それらをいたずらに強調したりしない小説家だということが、きっとわかるはずだ。\u003c/p\u003e","title":"ひどく寒くて曇っているのに明るい日：エリカ・クラウス『だれか、わたしを助けて』短評"},{"content":" 読み込んでいます… ","permalink":"https://tano-shiina.com/contact/","summary":"\u003ciframe\n  src=\"https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSe8OV0AGDyXeETWoNwm2Ag5nNikMO1Cnfet2rTf9zqBRH57hg/viewform?embedded=true\"\n  width=\"100%\"\n  height=\"800\"\n  frameborder=\"0\"\n  marginheight=\"0\"\n  marginwidth=\"0\"\u003e\n  読み込んでいます…\n\u003c/iframe\u003e","title":"Contact"},{"content":" 『THE MONKEY／ザ・モンキー』（監督：オズグッド・パーキンス、2025年）© 2025 C2 MOTION PICTURE GROUP, LLC. ALL RIGHTS RESERVED. サルに翻弄される ある男がアンティークショップとおぼしき店に、サルのおもちゃを売りにくる場面から物語は始まる。制帽をかぶり、血まみれの制服を着た彼は、サルを差し出して店主にこう告げる。\nこれを一刻も早く手放したい。\n息子たちのために買ったが、息子らは絶対に喜ばない。\nこのように幕を開けた映画が「家族」を軸に展開することは、なにも不思議ではない。\n映画のほとんどの時間で視点人物を担うハル。\n彼を虐げる双子の兄であるビル。\n彼らをひとりで育てる母親のロイス。\nそして失踪してしまった、アバン以外は登場しない飛行機のパイロットである父親――だから彼は制服を着ていて、ことあるごとに妻や息子たちにお土産を買ってきていて、あのサルもそのひとつだった。\n1999年から始まった物語は、多くの死を経てやがて25年後へと飛ぶ。ハルは結婚し、一児の親となったが、サルへの恐怖心はいまだに残っている。いつか、サルがまた戻ってくるかもしれない。そうした不安から、周囲を巻き込まないようにするため、彼は妻と離婚し、家族と距離を置くようになっていた。\nハルはみずからの父親とはまた違ったかたちで、父親としての役目を果たせていない。学校から家系図をつくる課題を出されている息子のピーティーの質問を、彼は何度もはぐらかす。家族の話を、どうしても正直に打ち明けられない。\n『THE MONKEY／ザ・モンキー』は家族と、その死がもたらす心の傷からいかに立ち直るかの話である、と要約したとして、それは間違いとはいえないはずだ。映画からテーマを引き出そうとするのであれば、むしろ自然な解釈といえる。ハルは、息子であるピーティーと家系図について次のようなやりとりをする。\nピーティー「聞いても？」\nハル「今度にしろ」\nピーティー「母親の死因は？」\nハル「家系図だったら \u0026ldquo;いつ\u0026rdquo; と \u0026ldquo;誰\u0026rdquo; でいいだろ。\u0026ldquo;なぜ\u0026rdquo; や \u0026ldquo;どうやって\u0026rdquo; じゃなく」\nさらに付け加えると25年前には、ハルの母親・ロイスはベビーシッターだったアニーの葬儀で次のように息子たちに語っていた。\nすべては事故なのよ。もしくはすべてが必然。どちらも同じこと。\n\u0026ldquo;もし\u0026rdquo; でもない。\u0026ldquo;どのように\u0026rdquo; でも。問題は \u0026ldquo;いつか\u0026rdquo;。\n誰でも死ぬ。それが命よ。\nロイスの発言は一種の人生訓だ。人生の理不尽さ・不条理さ、そして命の有限性に対する忍従の姿勢だ。\nただし、少し乱暴な理屈ではある。逝年が同じなら、殺人も自殺も病死も同じということにはならないだろう。\u0026ldquo;いつか\u0026rdquo; が問われるのであれば、たいてい他の疑問もセットになってくっついてくるはずだ。\nロイスは達観してしまっているのだろうか。いや、違う。それは直前のシーンを見ればわかる。\n教会で新米の司祭から、「なぜ死んだのはあなたではなくアニーだったのか」という問いとともに目配せをされた際のロイスの反応を思い出そう。彼女はまるで弾かれたように、一度司祭から目を逸らしたのだった。\nなにを想像したのだろう？　きっと自分の死の瞬間を、それから2人の子どもを残して先に死んでしまうだろうことを想像して。\nロイスは死を恐れている。だからこそ息子たちへの助言の体裁をとりながら、自分にも言い聞かせているのではないだろうか。「死についてあれこれ考えるな」と。\nしかし、人間は「死」にたいして考えこまずにはいられない。それがあまりにも唐突で、大仰で、親しい人間のものであればなおさらだ。死はさまざまな疑問を喚起する。「どうして？」「なぜあのひとが？」「きっとなにか理由があるはずだ」と。\nそんな人間に対して、サルはまさに事故や病気、自然災害のように命を奪っていく。ほとんど神の気まぐれにさえ思える。どうやって殺すか、その手段だってバラバラだ。まさしくサルにとって重要なのは \u0026ldquo;いつ\u0026rdquo; だけなのだろう。\n（そう考えるとやはりサルが持つのはドラムよりシンバルのほうがふさわしかったのではないだろうか。ディズニーはどう思う？1）\nサルとともに生きる 劇中、大人になった双子の兄・ビルはチャイニーズレストランでフォーチュンクッキーの中のおみくじから \u0026ldquo;啓示\u0026rdquo; を得る。あきらかにサルからのものとおぼしきメッセージが書いてある紙から顔をあげると、視線の先に「2016年　申年」と書かれたカレンダーが掛かっている。\nビルは確信する。サルが戻ってきたのだ、と。\n01:01:49~ しかし、これはよく考えると少し不思議だ。物語は1999年から始まり、そのあと25年後へと飛ぶ。双子が久しぶりに再会するのもそのときだ。\nつまり、ビルが2016年からあちらこちらにサル帰還の兆しを見るようになったのが事実だとしても、じっさい彼がサルを手に入れるまではだいぶ時間がある（まあカレンダーが2016年のまましばらくレストランに飾られていたという可能性もないではないが）。\nそもそも申年というのであれば、2004年だってそうだった。ちなみに1999年は卯年だ。\nビルが見たサル帰還の兆候は、母親を亡くした心の傷が、おとなになっても癒えていないせいで見た幻だったのだろうか。そうかもしれない。そうではないかもしれない。問題はそこではない。ビルはそこに「徴」を読みとり、みずからの行く道を決めた。この点が重要なのである。\nいつか誰でも死ぬ。母・ロイスのいったとおり、それは真実だろう。サルによる殺戮行為に意味や理由なんてなく、たまたま選ばれてたまたまそのときに死んだ。運命。それだけなのかもしれない。\nしかしだからといって残された側が、「はいそうですか」とすぐに気持ちを切り替えられるわけではない。生者にとって、死はどうにかして折り合いをつけるべきものなのだ。たとえそのやり場のない感情の行き着く先が間違っていたとしても。\n『THE MONKEY／ザ・モンキー』は、大勢の人間が迎えるバカバカしい死の瞬間をテンポよく描いている。そんな映画の感想でいうことではないかもしれない。それを重々承知でいわせてもらうと、ここには命を奪う側と、奪われた側の非対称性がある。命を奪う行為に意味や理由はなくても、命を奪われた側にとって、それは大きな問題なのだ。\nビルはハルがサルのネジを巻いたせいで母が死んだと考えた。だからこそ、母親への執着2を断ち切れない彼は復讐を決意する。ハルもハルで、自分が間接的に母を殺したであろう罪悪感に苦しんでいる。\nそんな双子が和解するきっかけとなるのは、ハルが「つらいよな。母は僕の母でもあった」という言葉である。ビルはここでようやくハルのつらさにも思い至り、心を改めようとするのである。\nこの和解にたいして、やや拙速なのではないかという指摘は妥当だろう。あのとき、「ネジを巻けば誰かが（できれば兄が）死ぬだろう」ということは、幼いハルにもわかっていた。もちろん、母が選ばれたのは偶然だろう。しかし、ハルがサルのネジを回したのは事実なのだ。そうした事実を無視して和解に至っていいのだろうか。\nこの疑問に答えるためには、あの和解の段階で、2人がサルをどういう存在として認識していたかを見る必要がある。\nサルがもたらす死には理由がなく、対象となる人や手段を選ばず、人間が狙ったとおりに機能するわけでもない。ビルはサルを使ってハルを殺そうと試みたが、まったくうまくいかず、ほとんど無関係な人間ばかりが犠牲になっていった。2人はそうしたサルの性質を嫌というほど知っている。\nだからこそ、彼らは和解することができたのだ。ビルがハルを、ハルが自分自身を許すそのとき、サルが人間の手に負えない存在であることが、ある種の救いとして機能している。\nビルはハルをいじめていた。ハルは、ビルが死ねばいいと思ってサルのネジを巻いた。サルは人間の命を奪う。ロイスが選ばれた。母を失った悲しみから、ビルはサルを使ってハルを殺そうとする。しかし、うまくいかない。代わりに他の大勢の人間が死んでしまう。サルは人間の思い通りにならない。それが、ハルにもビルにも身に染みてわかる。そしてロイスは、ハルとビル、2人の母親だった。\nアバンのラスト、ハルのナレーションによって、父がおみやげとして買ってきたサルは「遺産」と呼ばれていた。そして作品終盤で、ハルはそのサルを兄から継承することになる。父の「最近親者」であり、自分こそが「法的」なサルの所有者だと主張していた兄から、だ。\nそして息子・ピーティーからの「サルをどうにかしなくちゃ」という言葉に応えてこう言う。「保管するよ。家族の物として守り続ける」と。ハルは彼なりに、身近な人間の死と折り合いをつけ、その原因であるサルとも付き合っていくための方針を見つけられたのだろう。\n以上、見てきたように、『THE MONKEY／ザ・モンキー』には間違いなく家族ドラマ3的な側面が存在している。\nしかし、本作が不条理ホラーコメディ映画であることもまた揺るぎない事実だ。家族ドラマとして成立していればいるほど、賑やかしとばかりに消費される脇役やモブの命の軽さも際立つ。この作品には、死の重さと軽さが同居している。そして映画は、登場するすべての人物に等しい重みを与えられるわけではない。\nサルに謝罪する 家族の喪失をめぐるドラマと、無関係な人間が死ぬことのおかしさが、同じ娯楽作品の中で共存していること。\n論難したいのではない。これは『THE MONKEY／ザ・モンキー』に限った話ではなく、あらゆるフィクションがもちうる性質であり、不思議さだ。わたしたち鑑賞者は、作品がなにかしらの矛盾や相反するような要素を含んでいようと、それを積極的に受け入れることができる。1つの作品が扱う「不条理な死」にたいして、ある場面では手を叩いて笑い、ある場面では物思いに沈むことができる。\n劇中、サルによる殺戮がどれだけ気まぐれにみえたとしても、そこにはだれかしらの意図がある。それは当然、オズグッド・パーキンスをはじめとした制作者たちだ。\nなるほど、サルがもたらす死は、サル自身にとっては理由のないものなのかもしれない。サルは命が好きなだけなのだろう。\nしかし劇中、サルはしかるべきタイミングで、しかるべき人物を、ド派手なやり方で殺すことで、「もしもあのとき……」という感情を双子に植えつけ、物語を先へ先へと駆動させる。ついでに名もなきモブも大量に殺す。そのくせ、なぜか都合よく動作しないときもある。サルの行いはこの『THE MONKEY／ザ・モンキー』という映画で、あきらかに意味を担っている。制作者に操られている。4\n「んな当たり前な」と思うかもしれない。わたしもそう思うので安心していい。難癖をつけているようにしかみえないだろうが、難癖をつけることが目的ではない。\n「それは違う。サルが残酷に、ときにバカバカしく人間を殺すのは、人間のように死に畏敬の念を抱いたり、過剰に意味づけしたりしていないからだ。制作者は自分たちが定めた設定に準じたに過ぎない」\nこのように抗弁することは可能だろう。しかし……少なくともそれはわたしには欺瞞だ。わたしはこれがホラーコメディ映画で、たくさん人が死ぬだろうことを期待したうえで見た。これは否定しがたい事実だ。\nなぜ彼らがこんなホラーコメディを約100分の尺でつくったのか。それはおそらく、\u0026ldquo;いつ\u0026rdquo; 人が死ぬかだけでは鑑賞者が満足しないからだ。人がたくさん死んで、死に方のバリエーションも豊富。笑えるうえに人間ドラマまで備わっている。それでいて100分くらいで終わってくれる。そこそこ金や時間をかけるにはうってつけの、そんな映画。見世物。\n終盤、ピーティーは終末世界さながらの街を眺めながら次のように口にする。\n人が誰でも死ぬのはわかるけど、全員が一気に死ぬのは変だ。\nこの言葉は奇妙に胸に響く。そう、とてつもなく変なのだ。人がたくさん死ぬということは。けっしてあってはならないことだ。\nそしてこの感慨はたぶん、あのバカバカしいまでの惨状が描かれることなしにはありえない。ここには切実なアイロニーがあるが、同時に度し難い不真面目さもある。わたしは真摯になりきれない自分のことが少し嫌いになるが、やがてすぐに忘れてしまう。\nもともとOrgan Grinder\u0026rsquo;s Monkeyとは、街頭音楽家が奏でる手回しオルガンの音に合わせて踊ったり、シンバルを叩いたりするサルを指していた。ようするに、サルは音楽家によって観客ウケがよさそうな芸を仕込まれ、そのように振る舞っているにすぎない。\nわたし（たち）は、サルに謝らなくてはいけないかもしれない。\n00:07:34~ 劇中でサルが収められていた箱には「Organ Grinder Monkey」と箔押しされており、アポストロフィーエスがない。 https://www.gamesradar.com/entertainment/horror-movies/the-monkey-director-explains-how-a-bizarre-copyright-issue-actually-improved-the-comedy-horror-movie-thanks-disney/ \u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n作品の冒頭で、ハルはナレーションで兄についてこう語っていた。「僕より3分先に生まれ、ママの胎盤を独占し、\u0026ldquo;兄\u0026rdquo; として君臨」。この時点で、兄にマザコン気質があるかもしれないことが示されている。さらに付け加えると、 \u0026ldquo;いつ\u0026rdquo; というタイミングの問題が早くも顔を出していることが見てとれる。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n家族ドラマとして考えたとき、双子を引き取ってくれた伯父夫婦が、子どもを持たずにスワッピングを楽しんでいる設定はだいぶ気になる。兄・ビルは伯父の死に際して彼を「死んでもいい。イヤなやつだし」と評している。その後、成長したビルがおそらく家族を持っていないことも含め、そこから監督の思想を読み取れるかもしれない……が、引きとってくれるだけいいじゃんねという気もするな。たんにビルが伯父の姿に、子どもを蔑ろにする父を重ねただけかもしれない。少なくとも映されてるかぎりでは、ビルが言うほど悪い人に見えないんだよなー。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n「サルは \u0026ldquo;いつ\u0026rdquo; 命を奪うかにしか興味がない」ことを強調しなければいけないからこそ、ビルはあのタイミングであのような顛末を迎える必要があったのだと思う。そうしなければ「けっきょく主要人物は特別扱いじゃん」と指摘されかねない。誰かが死ぬ必要があった。かといってハルやピーティーを死なせるわけにはいかない（悲劇に寄ってしまうから）。「じゃあそれってやっぱり作為じゃないですか？」そう、そうなんだよな、無限後退……。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","permalink":"https://tano-shiina.com/2026/10/24/q3k7eexz/","summary":"\u003cfigure\u003e\n  \u003ca href=\"https://movies.kadokawa.co.jp/themonkey/\"\u003e\n    \u003cimg src=\"/images/posts/q3k7eexz/ogp.webp\" alt=\"『THE MONKEY／ザ・モンキー』ビジュアル\"\u003e\n  \u003c/a\u003e\n    \u003cfigcaption\u003e『THE MONKEY／ザ・モンキー』（監督：オズグッド・パーキンス、2025年）© 2025 C2 MOTION PICTURE GROUP, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.\u003c/figcaption\u003e\n\u003c/figure\u003e\n\u003ch2 id=\"サルに翻弄される\"\u003eサルに翻弄される\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e　ある男がアンティークショップとおぼしき店に、サルのおもちゃを売りにくる場面から物語は始まる。制帽をかぶり、血まみれの制服を着た彼は、サルを差し出して店主にこう告げる。\u003c/p\u003e\n\u003cblockquote\u003e\n\u003cp\u003eこれを一刻も早く手放したい。\u003cbr\u003e\n息子たちのために買ったが、息子らは絶対に喜ばない。\u003c/p\u003e\n\u003c/blockquote\u003e\n\u003cdiv style=\"position: relative; padding-bottom: 56.25%; height: 0; overflow: hidden;\"\u003e\n\t\t\t\u003ciframe allow=\"accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share; fullscreen\" loading=\"eager\" referrerpolicy=\"strict-origin-when-cross-origin\" src=\"https://www.youtube.com/embed/-LqL-gRiX7c?autoplay=0\u0026amp;controls=1\u0026amp;end=0\u0026amp;loop=0\u0026amp;mute=0\u0026amp;start=0\" style=\"position: absolute; top: 0; left: 0; width: 100%; height: 100%; border:0;\" title=\"YouTube 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がある。このファイルプロパティにはファイル作成時間を示すfile.ctimeというプロパティが標準で備わっているのだが、今回はこちらは使わない。なぜかというと、file.ctimeはファイルシステム上の作成日時であり、同期やファイルのコピー・移動などによって変化する可能性がある。\nなのでノートプロパティに、たとえばcreatedとかcreation_dateとか、わかりやすいプロパティを自分で設定するのがよい。かといって自分でいちいち時刻を入力するのは面倒である。そのため、TemplaterやQuickAddといったプラグインを使って、ファイル作成と同時に時刻を自動で入力するなど対応する必要がある。\nしかし、それもそれで面倒といえば面倒な場合、ファイル作成時や更新時を自動でノートプロパティに入力してくれる専用のプラグインの使用が考えられる。わたしはUpdate modified dateを使用している。\nUpdate modified dateはインストールして設定すれば、ファイルを編集していると勝手に作成日時や更新日時を自動でノートプロパティに挿入してくれる。ファイルの先頭にプロパティの区切りがない場合や、作成日時を挿入するためのプロパティが設定されていない場合は、それらもいっしょに補ってくれる。ちなみに作成日時のプロパティにすでに値がある場合は上書きしない。\nとりあえず設定すべきなのは4箇所。\nModified date property: ノートプロパティにファイル更新日時を挿入するためのプロパティ名を決める。わたしはmodifiedにしている。 Created date property: ノートプロパティにファイル作成日時を挿入するためのプロパティ名を決める。わたしはcreatedにしている。 Date format: 日付をどういうフォーマットで自動挿入するか決める。わたしはYYYY-MM-DD HH:mm:ssにして時分秒まで記入しているが、今回の用途的には年月日だけでも事足りる。 Exclude folders: Update modified dateの対象から外したいフォルダを指定する。たとえばテンプレートファイルなど。 ただ、厳密にいうとこのプラグインはファイルを作成した瞬間ではなく、ファイルを初回に編集したときにプロパティに値を挿入する。つまり、Obsidian Webclipperなどでクリップするだけして放置→同期してしまうと、けっきょく作成日時がずれてしまう可能性がある。\nBasesで今月作成したファイル一覧を内部リンク形式で取得する 新規ベースを作成後、必要な手順は3つ。\nフィルターで今月作成したファイルを絞り込む。 一覧にしたファイルをリンクとして取得できるようにするため、プロパティに数式を追加。 ベース左上にある「n件の結果」をクリックしてコピー、任意のファイルにペースト。 順に説明する。\n1. フィルターで今月作成したファイルを絞り込む フィルター \u0026gt; このビュー \u0026gt; 次のすべてが真 \u0026gt; \u0026lt;/\u0026gt;をクリックして簡易フィルターから詳細フィルターに切り替え\nそれらの操作を行ったら詳細フィルターに以下のように追加する。\ncreatedとなっているところは先ほど自分で決めたプロパティ名に入れ替えて使おう。\ndate(created).year == today().year \u0026amp;\u0026amp; date(created).month == today().month date(created).year == today().yearのみ指定すると、2026年に作成したファイルの一覧が取得できる。\nこのやり方は、一度設定してしまえば自分でなにもしなくてもファイル一覧が取得できるので楽だが、うっかり月をまたいでしまったときに困る。2026年12月31日から2027年1月1日になった場合、表示されるのは2027年1月に作成したファイルのみである。\nなので、解決法としてはかなりアホっぽいのだが、いっそ手打ちにしてしまったほうがいい。つまり、2026年10月に作成したファイル一覧を絞り込んで取得したいのであれば次のようになる。\ndate(created).year == 2026 \u0026amp;\u0026amp; date(created).month == 10 毎月地味な手間が発生するが、わたしのようにぼんやりしていて物忘れが多い人間には気楽でいい。これなら任意の過去の年月を指定して作成したファイル一覧が取得できる。\ninfo\n作成したファイルに含めたくないノートなどがある場合、ここでいっしょに指定しておくのがいい。\nたとえば「Template」という名前のフォルダを除きたいのなら、\nフィルター \u0026gt; フィルターを追加 \u0026gt; フォルダ (file.folder) is not Template\nを指定すればよい。\n2. 一覧にしたファイルをリンクとして取得できるようにするため、プロパティに数式を追加 プロパティ \u0026gt; 数式を追加をクリック、数式の欄に次のように記入する。\n\u0026#34;[[\u0026#34; + file.name + \u0026#34;]]\u0026#34; 表示名は適当に「リンク」などとしておけばよい。\nその後、ちゃんと追加できたか確認する。もう一度プロパティをクリックして、さきほど作成した「リンク」にチェックが入っていることを確かめる。\ninfo\nプロパティに追加した数式は、もとのファイルには影響を及ぼさない。\n（勝手にノートプロパティに値を追記して汚したりはしない）\nさらにここで表示したいプロパティを選んでおこう。それらもまとめてコピーできるからだ。\nまず、「リンク」は＝ファイル名を含んでいるので「name」のチェックは外していいだろう。\nあとは好きに選ぶ。たとえばノートプロパティにdescriptionを設定していて、それもいっしょにコピーしたいのであればチェックを入れておこう。\n3. ベース左上にある「n件の結果」をクリックしてコピー、任意のファイルにペースト ここまでの操作の結果を確認しておこう。狙ったファイルが絞りこめているだろうか。問題なければベース左上にある検索結果をクリック。「クリップボードにコピー」を選べばOK。そのままペーストすると表形式でペーストされる。プレーンテキストとしてペーストしても一項目一行でペーストされる。\n【応用編】今月読んだ本や見た映画一覧をリンク形式で取得する 準備 以下をやっておく必要がある。\n書籍や作品ひとつごとにノートもひとつ作っておく。 そのカテゴリのノートをすべて取得できるようにしておく。分類方法はフォルダでもタグでもノートプロパティでもよい。たとえば#bookをつける、書籍フォルダをつくるなど。 各書籍や作品のノートに読み終わった日時を記入するためのプロパティ名を設定する。たとえばwatch_dateなど。わたしは本も映画もfinishedを使っている。自分がしっくりくる表記を選べばよい。 3のプロパティタイプをリスト型にしておく（日付型や、日付・時刻型ではない）。これは再読や再鑑賞時のデータも取得することを念頭に置いている。 プロパティのタイプを変更するには、プロパティ名の横にあるタイプアイコンをクリックし、別のオプションを選択します。1\nフィルターで今月読んだり見たりしたファイルを絞り込む フィルターをクリックし、以下の数式を入力する。finishedとなっている箇所は自分で決めたプロパティ名を入れる。年月が入っているところは自分で取得したい期間に変更しよう。日付フォーマットも自分が普段から使用しているものに合わせて使う。\nfinished.toString().contains(\u0026#34;2026-10\u0026#34;) finishedに含まれているのはとうぜん日付だが、プロパティタイプをリスト型にしているためテキストとして扱う。リスト型だと、ひとつのプロパティにたいして複数の値をもたせることができる。再読や再鑑賞時に便利だ（というか最初はdateでどうにかしようとしたけどうまくできなかった）。\nいちおうこれで運用しているけど問題はないはず。なにかあったら追記します（というか疑問点やバグはたぶんAIに聞いたら解決してくれると思う……）。\nあとは自分が取得したい種類のファイルが表示されるようにタグやフォルダ、ノートプロパティを使ってフィルタリングしよう。\n一覧をリンクとして取得するやり方は、上記したものと変わりない。プロパティ \u0026gt; 数式を追加を選んで\u0026quot;[[\u0026quot; + file.name + \u0026quot;]]\u0026quot;を記入すればいい。\nコピー前 コピー＆ペースト後。ちゃんとリンクとして機能している https://obsidian.md/ja/help/properties#%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%91%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%97 \u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","permalink":"https://tano-shiina.com/2026/10/19/0nwynuoi/","summary":"\u003cp\u003e\u003cimg loading=\"lazy\" src=\"/images/posts/0nwynuoi/ogp.webp\"\u003e\u003c/p\u003e\n\u003ch2 id=\"basesを使う前の準備\"\u003eBasesを使う前の準備\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e　Obsidian Basesには自分で設定するプロパティ（以下、公式にならって\u003ca\n  href=\"https://obsidian.md/ja/help/bases/syntax#%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%91%E3%83%86%E3%82%A3\"\n    target=\"_blank\"\n    rel=\"noopener noreferrer\"\n\u003e\n  ノートプロパティ\n\u003c/a\u003eと呼ぶ）を設定していなくても使える\u003ca\n  href=\"https://obsidian.md/ja/help/bases/syntax#%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%91%E3%83%86%E3%82%A3\"\n    target=\"_blank\"\n    rel=\"noopener noreferrer\"\n\u003e\n  ファイルプロパティ\n\u003c/a\u003eがある。このファイルプロパティにはファイル作成時間を示す\u003ccode\u003efile.ctime\u003c/code\u003eというプロパティが標準で備わっているのだが、今回はこちらは\u003cstrong\u003e使わない\u003c/strong\u003e。なぜかというと、\u003ccode\u003efile.ctime\u003c/code\u003eはファイルシステム上の作成日時であり、同期やファイルのコピー・移動などによって変化する可能性がある。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　なのでノートプロパティに、たとえばcreatedとかcreation_dateとか、わかりやすいプロパティを自分で設定するのがよい。かといって自分でいちいち時刻を入力するのは面倒である。そのため、TemplaterやQuickAddといったプラグインを使って、ファイル作成と同時に時刻を自動で入力するなど対応する必要がある。\u003cbr\u003e\n　しかし、それもそれで面倒といえば面倒な場合、ファイル作成時や更新時を自動でノートプロパティに入力してくれる専用のプラグインの使用が考えられる。わたしはUpdate modified dateを使用している。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003ca href=\"https://github.com/alangrainger/obsidian-frontmatter-modified-date\"\u003e\u003cimg src=\"https://gh-card.dev/repos/alangrainger/obsidian-frontmatter-modified-date.svg\"\u003e\u003c/a\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　Update modified dateはインストールして設定すれば、ファイルを編集していると勝手に作成日時や更新日時を自動でノートプロパティに挿入してくれる。ファイルの先頭にプロパティの区切りがない場合や、作成日時を挿入するためのプロパティが設定されていない場合は、それらもいっしょに補ってくれる。ちなみに作成日時のプロパティにすでに値がある場合は上書きしない。\u003cbr\u003e\n　とりあえず設定すべきなのは4箇所。\u003c/p\u003e\n\u003col\u003e\n\u003cli\u003e\u003cstrong\u003eModified date property\u003c/strong\u003e: ノートプロパティにファイル更新日時を挿入するためのプロパティ名を決める。わたしはmodifiedにしている。\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003e\u003cstrong\u003eCreated date property\u003c/strong\u003e: ノートプロパティにファイル作成日時を挿入するためのプロパティ名を決める。わたしはcreatedにしている。\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003e\u003cstrong\u003eDate format\u003c/strong\u003e: 日付をどういうフォーマットで自動挿入するか決める。わたしはYYYY-MM-DD HH:mm:ssにして時分秒まで記入しているが、今回の用途的には年月日だけでも事足りる。\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003e\u003cstrong\u003eExclude folders\u003c/strong\u003e: Update modified dateの対象から外したいフォルダを指定する。たとえばテンプレートファイルなど。\u003c/li\u003e\n\u003c/ol\u003e\n\u003cp\u003e　ただ、厳密にいうとこのプラグインはファイルを作成した瞬間ではなく、ファイルを\u003cstrong\u003e初回に編集したとき\u003c/strong\u003eにプロパティに値を挿入する。つまり、Obsidian Webclipperなどでクリップするだけして放置→同期してしまうと、けっきょく作成日時がずれてしまう可能性がある。\u003c/p\u003e\n\u003ch2 id=\"basesで今月作成したファイル一覧を内部リンク形式で取得する\"\u003eBasesで今月作成したファイル一覧を内部リンク形式で取得する\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e　新規ベースを作成後、必要な手順は3つ。\u003c/p\u003e\n\u003col\u003e\n\u003cli\u003eフィルターで今月作成したファイルを絞り込む。\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003e一覧にしたファイルをリンクとして取得できるようにするため、プロパティに数式を追加。\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003eベース左上にある「n件の結果」をクリックしてコピー、任意のファイルにペースト。\u003c/li\u003e\n\u003c/ol\u003e\n\u003cp\u003e　順に説明する。\u003c/p\u003e\n\u003ch3 id=\"1-フィルターで今月作成したファイルを絞り込む\"\u003e1. フィルターで今月作成したファイルを絞り込む\u003c/h3\u003e\n\u003cp\u003e　フィルター \u0026gt; このビュー \u0026gt; 次のすべてが真 \u0026gt; \u003ccode\u003e\u0026lt;/\u0026gt;\u003c/code\u003eをクリックして簡易フィルターから詳細フィルターに切り替え\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　それらの操作を行ったら詳細フィルターに以下のように追加する。\u003cbr\u003e\n　createdとなっているところは先ほど自分で決めたプロパティ名に入れ替えて使おう。\u003c/p\u003e\n\u003cpre tabindex=\"0\"\u003e\u003ccode\u003edate(created).year == today().year \u0026amp;\u0026amp;\ndate(created).month == today().month\n\u003c/code\u003e\u003c/pre\u003e\u003cp\u003e　\u003ccode\u003edate(created).year == today().year\u003c/code\u003eのみ指定すると、2026年に作成したファイルの一覧が取得できる。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　このやり方は、一度設定してしまえば自分でなにもしなくてもファイル一覧が取得できるので楽だが、うっかり月をまたいでしまったときに困る。2026年12月31日から2027年1月1日になった場合、表示されるのは2027年1月に作成したファイルのみである。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　なので、解決法としてはかなりアホっぽいのだが、いっそ手打ちにしてしまったほうがいい。つまり、2026年10月に作成したファイル一覧を絞り込んで取得したいのであれば次のようになる。\u003c/p\u003e\n\u003cpre tabindex=\"0\"\u003e\u003ccode\u003edate(created).year == 2026 \u0026amp;\u0026amp;\ndate(created).month == 10\n\u003c/code\u003e\u003c/pre\u003e\u003cp\u003e　毎月地味な手間が発生するが、わたしのようにぼんやりしていて物忘れが多い人間には気楽でいい。これなら任意の過去の年月を指定して作成したファイル一覧が取得できる。\u003c/p\u003e","title":"Obsidian Basesを使って今月作成したファイル一覧を内部リンク形式で取得する"},{"content":" 開発元：roccay, パブリッシャー：PLAYISM あらすじ 1972年、人類は宇宙探索によって未知の金属物質を発見する。銅の同位体であり、超電導の性質をもつそれを人類は「軽銅」と名付け、通信各種のインフラをはじめとした科学技術の発展に利用しはじめる。さらには軽銅を人間の神経系に埋めこむことで神経信号の伝達速度を飛躍的に向上させ、高速チャネル技術を確立させることをも成功。軽銅は人類にとってなくてはならない物質になった。\nしかし、その軽銅がなぜが地球上から次々と、しかも大規模で消失する未曾有の現象が発生。そのうえ原因不明の伝染病が発生したり、異常な磁気嵐が起きたりしたせいで人類文明は壊滅的な打撃を受け、人類じたいもそのほとんどが死に絶えてしまう。\n残された人々のうちの一部は高速チャネル技術を応用し、意識を転移させることに人類存続の望みを賭けていた。\nそして2133年、とある天体が、これまたとある無人島に落下する。意識転移を目指すファランステールという組織の研究員であるベンたちは、当該天体の調査のために島を訪れるのだが……。\nレビュー 公式は「ポイント\u0026amp;クリックホラー」と銘打っているが、あらすじをみてわかるとおり本作はけっこうなSFだ。SFなのだが、プレイヤーはつねに不穏さと混乱に苛まれることとなる。\n最終的にはそれなりに理解できるストーリーに落ち着くものの、この作品の評価は制作者が仕掛けた混乱をいか楽しめるかどうかにかかっているだろう。ジャンプスケアも動物の死もあるのだけれど、それ以上に「寄って立つリアリティラインが見定めがたい」という点で、本作はSFでありながらちゃんとホラーである。\nそもそも軽銅によって別の歴史をたどった人類史を想像するのが難しい。あらすじに書いたようなもろもろも、順を追って説明されるわけではない。1周かつ自力でストーリーを理解したいならメモはとったほうがいい。わたしは2周半+EDの回収で、プレイ時間はだいたい6時間ほどかけた。\nちなみにストアサンプルで若干匂わせているようなサバイバル要素は本作には存在しない。あるのはポイント＆クリックとちょっとしたパズルだ。残りは不穏さ、不気味さ、混乱だ。あ、QTEもちょっとある。音楽とビジュアルは抜群にわたしの好みだ。\nで、だ。最初に操作することになるベンを例にとって話を始めよう。こいつのパートがいきなり問題だ。いきなりなにかわからん薬剤を自分で自分に注射しているところから物語は始まる。目の前のノートには「裏切り者を見つけ出せ」の文字。\nそのうえ調査行できたはずの島には「お母さん」がいる。お母さんは姿こそみえないものの、ベンの食事について心配してくれる。やさしい。\nバターナイフにおびえたり、『作物育種学総論』や『マタイによる福音書』といった意味深な書物をチラ見したのち外に出てみると、浜辺にはデカい一つ目の異形が佇んでいる。\n一つ目はベンの上司でエヴァンという名前らしい。ベンはエヴァンの姿になんのリアクションもとらない。「このロリコンどもめ！」などと書きこんでひと笑いいただこうともしない。たいへんに賢明だ。\nエヴァンだけではない。他の研究員も異形にしかみえない。人間だけではない。蜘蛛までバカでかい。まともな姿なのは犬だけだ。なんか犬というよりぬいぐるみみたいだが。\nそのエヴァンと話しているうちに、無人島までのってきた船のエンジンが人為的に破壊されたらしいことを知る。たんなる仲間割れどころか遭難している。ろくなことがない。\nエヴァンに命じられて放射線測定器を直すため、胡乱で気味の悪いパズルを解いたり、急によくわからない怪物に襲われてゲームオーバーになったり、研究員みんなで焚き火を囲んで食事をしているうちにゲーム初日の日は暮れていく。あれ、お母さんはなにか食べなくていいわけ？\nエヴァンの認知能力には、あきらかになにか問題がありそうではある。しかしそれが薬物のせいなのか、彼じしんの性質によるものなのか、この物語がSFだからなのか、それともあの怪異がなにか干渉しているのか、制作者がたんなるシュールリアリスティックな演出スタイルを採用しただけなのかはっきりしない。少なくともすぐには。\nそれがわからないままプレーヤーはベンを操作し、翌日も島をうろうろと探索してまわり、納得感があるんだかないんだかわからないパズルをまたしても解いていく。\n「どうしてパズルを解かなくちゃいけないんだ？」「なんでこんなものをここに隠した？」\nわからない。とにかく解かなくては先へ進めない（いちおう補足しておくと、あとから意味のわかるものもちゃんとある）。\nこうしたパズルはポイント＆クリックゲームではおなじみだ。と同時に、（ものすごく今さらだけど）ここにはちょっとした発見がある。それは、こういう意図の読みとりづらいパズルってとても不気味だ、ということ。\nホラー要素のある作品において、「どうしてこんなものを解かなくてはいけないのか」「なぜこれで正解なのか」、そういった疑問への答えが（少なくともその時点では）不明瞭なパズルがあること。それじたい、奇妙でおそろしい。作品によってはパズルを解くことは＝儀式そのものだったりするのだろう。\nしかし、そのせいで物語はさらに胡乱さを増してしまうのも事実だ。SFにありがちな情報量の多さや、何度か視点人物が変わることなどもあいまって、ストーリーの理解を目的にしてプレイしてしまうとストレスを覚えるかもしれない。制作者が用意した不穏で奇妙な雰囲気に酔うつもりで楽しむのがいいと思う。\n","permalink":"https://tano-shiina.com/2026/10/18/okmq95ts/","summary":"\u003cfigure\u003e\n  \u003ca href=\"https://playism.com/game/the-dream-of-a-cockspur/\"\u003e\n    \u003cimg src=\"/images/posts/okmq95ts/ogp.webp\" alt=\"『稗: The Dream Of A Cockspur』ビジュアル\"\u003e\n  \u003c/a\u003e\n    \u003cfigcaption\u003e開発元：roccay, パブリッシャー：PLAYISM\u003c/figcaption\u003e\n\u003c/figure\u003e\n\u003ch2 id=\"あらすじ\"\u003eあらすじ\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e　1972年、人類は宇宙探索によって未知の金属物質を発見する。銅の同位体であり、超電導の性質をもつそれを人類は「軽銅」と名付け、通信各種のインフラをはじめとした科学技術の発展に利用しはじめる。さらには軽銅を人間の神経系に埋めこむことで神経信号の伝達速度を飛躍的に向上させ、高速チャネル技術を確立させることをも成功。軽銅は人類にとってなくてはならない物質になった。\u003cbr\u003e\n　しかし、その軽銅がなぜが地球上から次々と、しかも大規模で消失する未曾有の現象が発生。そのうえ原因不明の伝染病が発生したり、異常な磁気嵐が起きたりしたせいで人類文明は壊滅的な打撃を受け、人類じたいもそのほとんどが死に絶えてしまう。\u003cbr\u003e\n　残された人々のうちの一部は高速チャネル技術を応用し、意識を転移させることに人類存続の望みを賭けていた。\u003cbr\u003e\n　そして2133年、とある天体が、これまたとある無人島に落下する。意識転移を目指すファランステールという組織の研究員であるベンたちは、当該天体の調査のために島を訪れるのだが……。\u003c/p\u003e\n\u003cdiv style=\"position: relative; padding-bottom: 56.25%; height: 0; overflow: hidden;\"\u003e\n\t\t\t\u003ciframe allow=\"accelerometer; autoplay; clipboard-write; encrypted-media; gyroscope; picture-in-picture; web-share; fullscreen\" loading=\"eager\" referrerpolicy=\"strict-origin-when-cross-origin\" src=\"https://www.youtube.com/embed/wWQm_aI40NA?autoplay=0\u0026amp;controls=1\u0026amp;end=0\u0026amp;loop=0\u0026amp;mute=0\u0026amp;start=0\" style=\"position: absolute; top: 0; left: 0; width: 100%; height: 100%; border:0;\" title=\"YouTube video\"\u003e\u003c/iframe\u003e\n\t\t\u003c/div\u003e\n\n\u003ch2 id=\"レビュー\"\u003eレビュー\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e　公式は「ポイント\u0026amp;クリックホラー」と銘打っているが、あらすじをみてわかるとおり本作はけっこうなSFだ。SFなのだが、プレイヤーはつねに不穏さと混乱に苛まれることとなる。\u003cbr\u003e\n　最終的にはそれなりに理解できるストーリーに落ち着くものの、この作品の評価は制作者が仕掛けた混乱をいか楽しめるかどうかにかかっているだろう。ジャンプスケアも動物の死もあるのだけれど、それ以上に「寄って立つリアリティラインが見定めがたい」という点で、本作はSFでありながらちゃんとホラーである。\u003cbr\u003e\n　そもそも軽銅によって別の歴史をたどった人類史を想像するのが難しい。あらすじに書いたようなもろもろも、順を追って説明されるわけではない。1周かつ自力でストーリーを理解したいならメモはとったほうがいい。わたしは2周半+EDの回収で、プレイ時間はだいたい6時間ほどかけた。\u003cbr\u003e\n　\u003cbr\u003e\n　ちなみにストアサンプルで若干匂わせているようなサバイバル要素は本作には存在しない。あるのはポイント＆クリックとちょっとしたパズルだ。残りは不穏さ、不気味さ、混乱だ。あ、QTEもちょっとある。音楽とビジュアルは抜群にわたしの好みだ。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　で、だ。最初に操作することになるベンを例にとって話を始めよう。こいつのパートがいきなり問題だ。いきなりなにかわからん薬剤を自分で自分に注射しているところから物語は始まる。目の前のノートには「裏切り者を見つけ出せ」の文字。\u003cbr\u003e\n　そのうえ調査行できたはずの島には「お母さん」がいる。お母さんは姿こそみえないものの、ベンの食事について心配してくれる。やさしい。\u003cbr\u003e\n　バターナイフにおびえたり、『作物育種学総論』や『マタイによる福音書』といった意味深な書物をチラ見したのち外に出てみると、浜辺にはデカい一つ目の異形が佇んでいる。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e\u003cimg loading=\"lazy\" src=\"/images/posts/okmq95ts/1.webp\"\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　一つ目はベンの上司でエヴァンという名前らしい。ベンはエヴァンの姿になんのリアクションもとらない。「このロリコンどもめ！」などと書きこんでひと笑いいただこうともしない。たいへんに賢明だ。\u003cbr\u003e\n　エヴァンだけではない。他の研究員も異形にしかみえない。人間だけではない。蜘蛛までバカでかい。まともな姿なのは犬だけだ。なんか犬というよりぬいぐるみみたいだが。\u003cbr\u003e\n　そのエヴァンと話しているうちに、無人島までのってきた船のエンジンが人為的に破壊されたらしいことを知る。たんなる仲間割れどころか遭難している。ろくなことがない。\u003cbr\u003e\n　\u003cbr\u003e\n　エヴァンに命じられて放射線測定器を直すため、胡乱で気味の悪いパズルを解いたり、急によくわからない怪物に襲われてゲームオーバーになったり、研究員みんなで焚き火を囲んで食事をしているうちにゲーム初日の日は暮れていく。あれ、お母さんはなにか食べなくていいわけ？\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　エヴァンの認知能力には、あきらかになにか問題がありそうではある。しかしそれが薬物のせいなのか、彼じしんの性質によるものなのか、この物語がSFだからなのか、それともあの怪異がなにか干渉しているのか、制作者がたんなるシュールリアリスティックな演出スタイルを採用しただけなのかはっきりしない。少なくともすぐには。\u003cbr\u003e\n　それがわからないままプレーヤーはベンを操作し、翌日も島をうろうろと探索してまわり、納得感があるんだかないんだかわからないパズルをまたしても解いていく。\u003cbr\u003e\n　\u003cbr\u003e\n\u003cimg loading=\"lazy\" src=\"/images/posts/okmq95ts/2.webp\"\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　「どうしてパズルを解かなくちゃいけないんだ？」「なんでこんなものをここに隠した？」\u003cbr\u003e\n　わからない。とにかく解かなくては先へ進めない（いちおう補足しておくと、あとから意味のわかるものもちゃんとある）。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　こうしたパズルはポイント＆クリックゲームではおなじみだ。と同時に、（ものすごく今さらだけど）ここにはちょっとした発見がある。それは、こういう意図の読みとりづらいパズルってとても不気味だ、ということ。\u003cbr\u003e\n　ホラー要素のある作品において、「どうしてこんなものを解かなくてはいけないのか」「なぜこれで正解なのか」、そういった疑問への答えが（少なくともその時点では）不明瞭なパズルがあること。それじたい、奇妙でおそろしい。作品によってはパズルを解くことは＝儀式そのものだったりするのだろう。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　しかし、そのせいで物語はさらに胡乱さを増してしまうのも事実だ。SFにありがちな情報量の多さや、何度か視点人物が変わることなどもあいまって、ストーリーの理解を目的にしてプレイしてしまうとストレスを覚えるかもしれない。制作者が用意した不穏で奇妙な雰囲気に酔うつもりで楽しむのがいいと思う。\u003c/p\u003e\n\u003cdiv style=\"color-scheme: light;\"\u003e\n  \u003ciframe\n    src=\"https://store.steampowered.com/widget/1699710/\"\n    width=\"646\"\n    height=\"190\"\n    frameborder=\"0\"\n    style=\"display: block;\"\u003e\n  \u003c/iframe\u003e\n\u003c/div\u003e","title":"幾重ものあてどなさ：『稗 The Dream of A Cockspur』レビュー"},{"content":" 出版社：株式会社KADOKAWA, 原作・イラスト：たくま朋正, 原作：かとうひでお はじめに ストーリー原案・かとうひでお、漫画・たくま朋正を原作とした秋山瑞人の手による小説版『鉄コミュニケイション』、その第2巻「チェスゲーム」のなかで、主人公であるハルカたちが発電風車の整備という名目のもと、キャンプをするために、街から東にみえる丘へと移動するくだりがあります。\nKindle版1の表示に準じるのであればたった2ページほどしかない場面ですが、ここは秋山瑞人が用いた小説技巧を存分に味わえる大事な箇所だと思います。\n行軍記録――どうして？ 移動に使用する車両は、イーヴァのオンボロトラックと装甲トレーラーの計二台。イーヴァと一緒の車に乗りたいと思うような思わないようなでドキドキ状態のハルカであったが、トラックにイーヴァとリーブス、トレーラーにハルカとスパイクとトリガーという、無難ながらも面白味のない組み合わせに決まってしまう。ルークはトレーラーのコンテナの上を希望した。\n午前九時十七分、出発す。 2\n出発＝アクションの開始というタイミングで、作者である秋山は行軍記録のパロディを導入します。もともとこの計画は、ハルカによって \u0026ldquo;キャンプに行こう「作戦」\u0026rdquo; と呼ばれていたのでした。\nクレリックさんやリーブスさんにも相談してみました。もう三日も延期になってる「キャンプに行こう」作戦は、リーブスさんの発案です。3\nこのキャンプの真の目的は発電風車の整備ではなく、とあるできごとをきっかけにぎこちなくなっているハルカとイーヴァの関係修復にあります。だから \u0026ldquo;作戦\u0026rdquo; なのですね。もしかしたらその逆で、作戦という言葉が行軍記録というアイディアを連れてきてくれたのかもしれませんが、ともかく \u0026ldquo;作戦\u0026rdquo; という言葉が、行軍記録のパロディをやるための軽い布石としても機能してくれている。\nそれにしても、なぜ作者はこのタイミングで、語りに行軍記録めいた文章を混ぜ始めたのでしょうか。もう少し正確にいうなら、「どうしてここで語りのモードを切り替えても大丈夫だ」と判断したのでしょうか。これは考え甲斐のありそうなトピックに思えます。\nたしかに街から丘への「移動」は、時間の経過をともなうアクションです。しかし、たんに時間の経過を示したいだけであれば、具体的な時刻を挿入する必要はありません。景色の移り変わりを描写すればいい。実際、（あとで詳しく見ていきますが）風景描写の展開による時間経過も、ぬかりなく作者は行っています。語りの雰囲気を壊しかねない危険を犯してまでパロディをはさむ必要性は薄いように思われます。\n「大丈夫」にはそれ相応の確信が必要なはずです。なぜ書くのか。なにを書くのか。どうやって書くのか、その「どうやって」は意図したとおりの効果をあげられているのか。これらは複雑に絡み合っているので解きほぐすのが難しいですが、それでもこういうことを考えるのも小説を読む楽しみのひとつだと思います。やったりましょう。\nなぜ書くのか ここはそれほど難しい問題ではないです。\nパロディの妥当性うんぬん以前に、そもそも仲直りのためのキャンプであれば、メインイベントの舞台である丘までの移動を完全に省略して、いきなり到着したあとに場面転換してしまっていいのではないか――そのような疑問が的外れであることは、作品を最後まで読んだ読者には自明でしょう。発電風車への旅路は小説の終盤でもう一度反復されるからです。作者としてはこの移動の場面はぜひとも描いておきたかったはずです。\nもちろん小説は初めから終わりまで直線的に書かれるわけではないので、あとからさかのぼってこの移動シーンを付け足した可能性もあります。\n何を書くのか 小説終盤でもう一度くり返される丘への移動。それをハルカは誰かの力を借りるのではなく、ひとりきりでやりとげます。4\nハルカの成長を際立たせようとするなら、ロボットたちに全面的に助けられ、街の東5に発電風車の丘へと運ばれるだけの彼女の姿を書いておくのがいい。これはかなり素直な発想です。\nそして作者がそのように考えたとき、物語の舞台である文明崩壊後の世界で悪路を長距離移動していくイメージが、「車酔い」というアイディアへ実を結ぶのはごく自然なことに思われます。そして車といえば、前巻である「ハルカとイーヴァ」からたびたび取り上げられているのでした。\nトラックを運転するイーヴァはかっこよかった。\nわたしも練習すれば運転できるようになるかなあって聞いたら、こんなの慣れちゃえば歩くのと変わらないよっていう返事だった。後で運転を教えてもらう約束もした。楽しみ。6\nそしてまたこの車酔いは、発電風車の丘への移動という道行きのうちに、小説版『鉄コミュニケイション』の全編にわたって行われる「ロボットになりたい人間と、人間になりたいロボット」というテーマを、じつに無理なく導き入れたはずです。\nみんなとちがってロボットではないこと。ナマの身体を持ち、体調不良によって自分のものであるそれを思いどおりには扱えなくなってしまうこと。思い出しましょう、第1巻でハルカがイーヴァに運転を教わる際、うまくクラッチを扱えなかったのは、最初に踏んでおいたクラッチをあげたら車が走り出すという機械的な仕組みが「生理的にどうしても納得できなかった」7からです。終末世界でロボットに囲まれながら日々を暮らすハルカにとって、ひとり人間であることは切迫した問題なのです。\n「ロボットって、きれいだもん。わたしから、みっ、見たら、汚いところなんか、どこっ、どこにもないもん。わたしなんか人間だから、生き物殺して食べっ、ちゃうし、トイレも行かなくちゃいけないし、夜はねっ、ねなっ、寝なくちゃいけないなまっ、なまけ者だし、滑って転べば血が出るし、ちっともいうこときかないし、ちょっとの、ことですっ、すぐへそ曲げて、怒ったりするし」8\nところでここで少し行軍記録に話をもどすと、その形式の特徴はなんといっても時刻が記されていることです。\nハルカたちが街を出発したのは午前9時17分。キャンプ地についたのは午後4時39分。休憩をはさんでいるとはいえ、7時間22分かけてのろのろと悪路を進んだことになります。\nこうしてはっきり数字で示されると、おそらく読者によっては似たような経験をした過去の記憶や身体感覚がよみがえるのではないでしょうか。かりにそうでなかったとしても、車酔いに苦しむハルカのつらさは理解できるでしょう。時刻が書かれていることが読者の感情移入を助けてくれる効果はあると思います。\nそしてハルカと対照的に、長時間のドライブを経てもいつもと変わらない様子でいるロボットたちにも意識が向くかもしれません。ハルカが \u0026ldquo;嘔吐\u0026rdquo; するのに対し、イーヴァは自分のトラックに \u0026ldquo;給油\u0026rdquo; をしています。ここで人間とロボットの違いを描くことも、ねらいのひとつであるのは間違いないと思います。\nしかしこうして「ロボットになりたい人間と、人間になりたいロボット」とまとめてしまうと、どうしても二者間の差のみに焦点をあたってしまいかねません。最後まで読んだ読者であれば、小説版『鉄コミュニケイション』がそんな結論を提示して終わる作品ではないことを承知しているはずです（そもそもこの作品に出てくるロボットはかなり感情が豊かで人間くさい）。\nたとえば、さきほどあげた \u0026ldquo;給油\u0026rdquo;。このイーヴァによる給油を、スパイクとリーブスが手伝っている事実は見逃せません。さらに、このオンボロトラックをイーヴァが大切にしていることも思い出しましょう。\n機械（トラック）のメンテナンスをロボット（イーヴァ）が行い、それをさらにロボット（スパイクとリーブス）が手伝うという構図は、人間であるハルカをロボットたちが助けるさまと似通っています。意識的にしろそうでないにしろ、この丘への小旅行を人間とロボットの違いを強調させるため \u0026ldquo;だけ\u0026rdquo; に利用しようと考えていたのなら、こういった一文は書かれ得ないのではないでしょうか。\nクレリックをはじめとしたロボットたちがハルカを助けるのは、なにもクレリックたちがロボットで、ハルカが人間だからではありません。それは助ける対象がロボットであるイーヴァであっても同様なのですから。イーヴァの \u0026ldquo;救出\u0026rdquo; をめぐってかわされるハルカとクレリックの会話を読めば、おそらくそれ以上の説明はいらないでしょう。\n人とロボットの共通項。それがもっともよく表現されているのは、発電風車にいよいよ近づいたときでしょう。イーヴァはハルカとともに、暗く物思いに沈んでいたことも忘れて窓からその身を乗り出すのです。\n荒野をひたすら東進。行く手の遥か彼方に横たわる発電風車の丘の緑。未明まで降り続いた雨のため、ハイウエイの路面は泥におおわれていた。2\n午後三時三十九分、ハイウエイを降りる。周囲に緑が目立つようになる。丘のふもとは近い。9\n午後四時十九分。イーヴァのオンボロトラックの速度に合わせて、曲がりくねった道を登る。周囲は緑。夏の空を背景に林立する巨大な発電風車が、ついに視界におさまらなくなる。ハルカばかりか、イーヴァまでもが窓から身を乗り出して歓声を上げた。9\nここの演出は本当にいいですね。この作品のなかでも指折りに美しい。さらっと書いているように見えますが、「ついに視界におさまらなくなる」のすばらしさといったら！　副詞の使いどころも的確だし、「風車を見上げる」とかじゃないのがさぁ……いいよね。時間をかけて近づいていった移動の実感が端的に表現されている。そのうえ、出発時の荒野や泥の土色と、到着時の森の緑と夏空のコントラストまでなんなく活かしきっています。\nこのくだりはかなり映像的です。アニメなんかで、BGMが前に出てダイジェスト的に時間が処理される演出がありますが、それに近い効果を生んでいます。\nどう書くのか 行軍記録の特徴は時刻が記されていることだ、とわたしは書きました。そしてこの形式は同時に、できごとの要約や省略を含んだ進行、さらには場面のスピーディーな転換を小説に許します。時刻＋要約の基本形式を採用することによって語りのテンポをあげ、ダイジェスト的な演出を実現しているんですね。\n移動シーンをたんなる場面のつなぎにはしない。そのために書くべきこと決める。だからといって移動している様子を長々と書き留めるわけにはいかない。情報は圧縮しつつ、時間の経過も示したい。そうした諸々の要請が組み合わさって行軍記録という形式に行き着いたのではないでしょうか。\nわたしのようにたった2ページにネチネチと粘着している輩はともかく、おそらく読者としては、なんのエクスキューズもなくダイジェスト的な時間処理がなされてもあまり気にならないかもしれません。小説……というか文章一般にはどうしても、並べると縫い目なくくっついているかのように擬態する性質がある。「は？　別になにもおかしくないですが？」という顔をしてくる。\nしかし、こういった時間の経過や場面転換処理って書く側に立つと（またはその立場になりきって小説を読んでみると）ものすごく気になるんですよね。下手にやっているとちょっとカッコ悪くみえる。表地はそれなりの出来にみえても、めくってみれば裏地は糸がガタガタみたいな。\n小説でどう時間を書くのか。どうやって場面転換を行うのか。こういった地味な問題をどうやって解決するのかによって小説家の地力は問われる、とわたしは考えています。\n秋山の場合、これまで見てきたような複合的な理由によって行軍記録のパロディを取り入れようと考えたのだと思います……というのはわたしの想像にすぎないわけですが、作者なりに、この場面をなぜ書くのか・なにを書くのか・どうやって書くのかという問いにたいする答えは必要だったはずです。\nその答えははっきりとした理屈のかたちをとっていなかったのかもしれません。たんに「おれならやれるぜ」という自信が作者にみなぎっていて、すべては感覚的に行われた可能性だってあります。じじつ、ここまで理屈をこねくり回してきたわたしの感覚としても、この2ページが成立しているのは秋山の文体10があってこそだ、と思っています。\nここに、小説を要素還元的に読むことの難しさと不毛さ、そして意義があります。困難かつ無駄だからといって、すなわちやらなくてよい、ということにはならないはずです。\nおわりに そもそもなんでこんなエントリを書こうと思ったのかを記しておきます。\n最初に『チェスゲーム』読んでこの２ページに差しかかったときには、正直あまりいい印象ではありませんでした。「なんで急に行軍記録みたいになったの？」という疑問に耐えられるような、強度をもった記述だとは思えなかったからです。なんてえらそうな感想なんだ。\nまあでも小説ってそういうものか、秋山作品の語り手ってけっこう自由にふるまうもんな……と読み進めました。そういう箇所って、たいていは忘れるか気になっていてもそのままにしてしまいがちです。\nただな、なんかな、そういう読み方って自堕落なのではないかと思うてな……オタクの深読みと誹られようと、小説を読むことや小説を書くことを舐めてはいけないと思うのじゃよね……。\nだってそれは他人を侮ることにつながるでしょう？　まあ他人を理解できると思いこむこともそれは侮りなのだけれども……だけれどもねえ！\nというわけで秋山瑞人の文体そのものの話はいつかやれたらやります。理解したと思いこめたそのときに……。\n鉄コミュニケイション（２）チェスゲーム (電撃文庫) イーヴァとの仲直りのためにキャンプに向かったハルカたち。その帰り道、最強の敵ナイトとビショップが現れた！人気コミックのノベライズ、感動の完結編！ ストーリー原案: かとうひでお, 漫画: たくま朋正, 秋山瑞人『鉄コミュニケイション（２）チェスゲーム』, 株式会社KADOKAWA, 2023, Kindle版.\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n前掲書 p.36\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n前掲書 p.15\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nひとりきりとはいえ、ハルカは電動バイクで発電風車に向かうわけですが、ここで安易にハルカに車の運転をできるようにさせないどころか、無謀にも挑戦させないあたりが秋山瑞人という小説家のリアリスティックな部分だと思います。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nこの位置関係はとうぜん作者によって企まれたものです。ルークとイーヴァが西を目指した結果としてハルカたちのいる街にたどり着いたことを思い出しましょう。だからこそ、未練を断ち切ってイーヴァがひとり立ちしようとしたそのときに向かおうとするのは東であり、それは同時に発電風車のある方角でもあるのです。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nストーリー原案: かとうひでお, 漫画: たくま朋正, 秋山瑞人『鉄コミュニケイション（１）ハルカとイーヴァ』ｐ.134, 株式会社KADOKAWA, 2023, Kindle版.\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n前掲書 p.145\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nストーリー原案: かとうひでお, 漫画: たくま朋正, 秋山瑞人『鉄コミュニケイション（２）チェスゲーム』, p.263, 株式会社KADOKAWA, 2023, Kindle版.\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nストーリー原案: かとうひでお, 漫画: たくま朋正, 秋山瑞人『鉄コミュニケイション（２）チェスゲーム』, p.37, 株式会社KADOKAWA, 2023, Kindle版.\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n小説にまつわる理屈で説明できないことがらをすべて引き受けてくれる魔法のコトバ。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","permalink":"https://tano-shiina.com/2026/10/17/ndeol5dv/","summary":"\u003cfigure\u003e\n  \u003ca href=\"https://www.kadokawa.co.jp/product/200307000222/\"\u003e\n    \u003cimg src=\"/images/posts/ndeol5dv/ogp.webp\" alt=\"秋山瑞人『鉄コミュニケイション（２）チェスゲーム』表紙画像\"\u003e\n  \u003c/a\u003e\n    \u003cfigcaption\u003e出版社：株式会社KADOKAWA, 原作・イラスト：たくま朋正, 原作：かとうひでお\u003c/figcaption\u003e\n\u003c/figure\u003e\n\u003ch2 id=\"はじめに\"\u003eはじめに\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e　ストーリー原案・かとうひでお、漫画・たくま朋正を原作とした秋山瑞人の手による小説版『鉄コミュニケイション』、その第2巻「チェスゲーム」のなかで、主人公であるハルカたちが発電風車の整備という名目のもと、キャンプをするために、街から東にみえる丘へと移動するくだりがあります。\u003cbr\u003e\n　Kindle版\u003csup id=\"fnref:1\"\u003e\u003ca href=\"#fn:1\" class=\"footnote-ref\" 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id=\"なぜ書くのか\"\u003eなぜ書くのか\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e　ここはそれほど難しい問題ではないです。\u003cbr\u003e\n　パロディの妥当性うんぬん以前に、そもそも仲直りのためのキャンプであれば、メインイベントの舞台である丘までの移動を完全に省略して、いきなり到着したあとに場面転換してしまっていいのではないか――そのような疑問が的外れであることは、作品を最後まで読んだ読者には自明でしょう。発電風車への旅路は小説の終盤でもう一度反復されるからです。作者としてはこの移動の場面はぜひとも描いておきたかったはずです。\u003cbr\u003e\n　\u003cbr\u003e\n　もちろん小説は初めから終わりまで直線的に書かれるわけではないので、あとからさかのぼってこの移動シーンを付け足した可能性もあります。\u003c/p\u003e\n\u003ch2 id=\"何を書くのか\"\u003e何を書くのか\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e　小説終盤でもう一度くり返される丘への移動。それをハルカは誰かの力を借りるのではなく、ひとりきりでやりとげます。\u003csup id=\"fnref:4\"\u003e\u003ca href=\"#fn:4\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e4\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　ハルカの成長を際立たせようとするなら、ロボットたちに全面的に助けられ、街の東\u003csup id=\"fnref:5\"\u003e\u003ca href=\"#fn:5\" class=\"footnote-ref\" 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role=\"doc-noteref\"\u003e7\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003eからです。終末世界でロボットに囲まれながら日々を暮らすハルカにとって、ひとり人間であることは切迫した問題なのです。\u003c/p\u003e\n\u003cblockquote\u003e\n\u003cp\u003e「ロボットって、きれいだもん。わたしから、みっ、見たら、汚いところなんか、どこっ、どこにもないもん。わたしなんか人間だから、生き物殺して食べっ、ちゃうし、トイレも行かなくちゃいけないし、夜はねっ、ねなっ、寝なくちゃいけないなまっ、なまけ者だし、滑って転べば血が出るし、ちっともいうこときかないし、ちょっとの、ことですっ、すぐへそ曲げて、怒ったりするし」\u003csup id=\"fnref:8\"\u003e\u003ca href=\"#fn:8\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e8\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/blockquote\u003e\n\u003cp\u003e　ところでここで少し行軍記録に話をもどすと、その形式の特徴はなんといっても時刻が記されていることです。\u003cbr\u003e\n　ハルカたちが街を出発したのは午前9時17分。キャンプ地についたのは午後4時39分。休憩をはさんでいるとはいえ、7時間22分かけてのろのろと悪路を進んだことになります。\u003cbr\u003e\n　こうしてはっきり数字で示されると、おそらく読者によっては似たような経験をした過去の記憶や身体感覚がよみがえるのではないでしょうか。かりにそうでなかったとしても、車酔いに苦しむハルカのつらさは理解できるでしょう。時刻が書かれていることが読者の感情移入を助けてくれる効果はあると思います。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　そしてハルカと対照的に、長時間のドライブを経てもいつもと変わらない様子でいるロボットたちにも意識が向くかもしれません。ハルカが \u0026ldquo;嘔吐\u0026rdquo; するのに対し、イーヴァは自分のトラックに \u0026ldquo;給油\u0026rdquo; をしています。ここで人間とロボットの違いを描くことも、ねらいのひとつであるのは間違いないと思います。\u003c/p\u003e\n\u003chr\u003e\n\u003cp\u003e　しかしこうして「ロボットになりたい人間と、人間になりたいロボット」とまとめてしまうと、どうしても二者間の差のみに焦点をあたってしまいかねません。最後まで読んだ読者であれば、小説版『鉄コミュニケイション』がそんな結論を提示して終わる作品ではないことを承知しているはずです（そもそもこの作品に出てくるロボットはかなり感情が豊かで人間くさい）。\u003cbr\u003e\n　たとえば、さきほどあげた \u0026ldquo;給油\u0026rdquo;。このイーヴァによる給油を、スパイクとリーブスが手伝っている事実は見逃せません。さらに、このオンボロトラックをイーヴァが大切にしていることも思い出しましょう。\u003cbr\u003e\n　機械（トラック）のメンテナンスをロボット（イーヴァ）が行い、それをさらにロボット（スパイクとリーブス）が手伝うという構図は、人間であるハルカをロボットたちが助けるさまと似通っています。意識的にしろそうでないにしろ、この丘への小旅行を人間とロボットの違いを強調させるため \u0026ldquo;だけ\u0026rdquo; に利用しようと考えていたのなら、こういった一文は書かれ得ないのではないでしょうか。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　クレリックをはじめとしたロボットたちがハルカを助けるのは、なにもクレリックたちがロボットで、ハルカが人間だからではありません。それは助ける対象がロボットであるイーヴァであっても同様なのですから。イーヴァの \u0026ldquo;救出\u0026rdquo; をめぐってかわされるハルカとクレリックの会話を読めば、おそらくそれ以上の説明はいらないでしょう。\u003c/p\u003e\n\u003chr\u003e\n\u003cp\u003e　人とロボットの共通項。それがもっともよく表現されているのは、発電風車にいよいよ近づいたときでしょう。イーヴァはハルカとともに、暗く物思いに沈んでいたことも忘れて窓からその身を乗り出すのです。\u003c/p\u003e\n\u003cblockquote\u003e\n\u003cp\u003e荒野をひたすら東進。行く手の遥か彼方に横たわる発電風車の丘の緑。未明まで降り続いた雨のため、ハイウエイの路面は泥におおわれていた。\u003csup id=\"fnref1:2\"\u003e\u003ca href=\"#fn:2\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e2\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/blockquote\u003e\n\u003cp\u003e \u003c/p\u003e\n\u003cblockquote\u003e\n\u003cp\u003e午後三時三十九分、ハイウエイを降りる。周囲に緑が目立つようになる。丘のふもとは近い。\u003csup id=\"fnref:9\"\u003e\u003ca href=\"#fn:9\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e9\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/blockquote\u003e\n\u003cp\u003e \u003c/p\u003e\n\u003cblockquote\u003e\n\u003cp\u003e午後四時十九分。イーヴァのオンボロトラックの速度に合わせて、曲がりくねった道を登る。周囲は緑。夏の空を背景に林立する巨大な発電風車が、ついに視界におさまらなくなる。ハルカばかりか、イーヴァまでもが窓から身を乗り出して歓声を上げた。\u003csup id=\"fnref1:9\"\u003e\u003ca href=\"#fn:9\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e9\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/blockquote\u003e\n\u003cp\u003e　ここの演出は本当にいいですね。この作品のなかでも指折りに美しい。さらっと書いているように見えますが、「ついに視界におさまらなくなる」のすばらしさといったら！　副詞の使いどころも的確だし、「風車を見上げる」とかじゃないのがさぁ……いいよね。時間をかけて近づいていった移動の実感が端的に表現されている。そのうえ、出発時の荒野や泥の土色と、到着時の森の緑と夏空のコントラストまでなんなく活かしきっています。\u003cbr\u003e\n　\u003cbr\u003e\n　このくだりはかなり映像的です。アニメなんかで、BGMが前に出てダイジェスト的に時間が処理される演出がありますが、それに近い効果を生んでいます。\u003c/p\u003e\n\u003ch2 id=\"どう書くのか\"\u003eどう書くのか\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e　行軍記録の特徴は時刻が記されていることだ、とわたしは書きました。そしてこの形式は同時に、できごとの要約や省略を含んだ進行、さらには場面のスピーディーな転換を小説に許します。時刻＋要約の基本形式を採用することによって語りのテンポをあげ、ダイジェスト的な演出を実現しているんですね。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　移動シーンをたんなる場面のつなぎにはしない。そのために書くべきこと決める。だからといって移動している様子を長々と書き留めるわけにはいかない。情報は圧縮しつつ、時間の経過も示したい。そうした諸々の要請が組み合わさって行軍記録という形式に行き着いたのではないでしょうか。\u003c/p\u003e\n\u003chr\u003e\n\u003cp\u003e　わたしのようにたった2ページにネチネチと粘着している輩はともかく、おそらく読者としては、なんのエクスキューズもなくダイジェスト的な時間処理がなされてもあまり気にならないかもしれません。小説……というか文章一般にはどうしても、並べると縫い目なくくっついているかのように擬態する性質がある。「は？　別になにもおかしくないですが？」という顔をしてくる。\u003cbr\u003e\n　しかし、こういった時間の経過や場面転換処理って書く側に立つと（またはその立場になりきって小説を読んでみると）ものすごく気になるんですよね。下手にやっているとちょっとカッコ悪くみえる。表地はそれなりの出来にみえても、めくってみれば裏地は糸がガタガタみたいな。\u003cbr\u003e\n　小説でどう時間を書くのか。どうやって場面転換を行うのか。こういった地味な問題をどうやって解決するのかによって小説家の地力は問われる、とわたしは考えています。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　秋山の場合、これまで見てきたような複合的な理由によって行軍記録のパロディを取り入れようと考えたのだと思います……というのはわたしの想像にすぎないわけですが、作者なりに、この場面をなぜ書くのか・なにを書くのか・どうやって書くのかという問いにたいする答えは必要だったはずです。\u003cbr\u003e\n　その答えははっきりとした理屈のかたちをとっていなかったのかもしれません。たんに「おれならやれるぜ」という自信が作者にみなぎっていて、すべては感覚的に行われた可能性だってあります。じじつ、ここまで理屈をこねくり回してきたわたしの感覚としても、この2ページが成立しているのは秋山の文体\u003csup id=\"fnref:10\"\u003e\u003ca href=\"#fn:10\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e10\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003eがあってこそだ、と思っています。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　ここに、小説を要素還元的に読むことの難しさと不毛さ、そして意義があります。困難かつ無駄だからといって、すなわちやらなくてよい、ということにはならないはずです。\u003c/p\u003e\n\u003ch2 id=\"おわりに\"\u003eおわりに\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e　そもそもなんでこんなエントリを書こうと思ったのかを記しておきます。\u003cbr\u003e\n　最初に『チェスゲーム』読んでこの２ページに差しかかったときには、正直あまりいい印象ではありませんでした。「なんで急に行軍記録みたいになったの？」という疑問に耐えられるような、強度をもった記述だとは思えなかったからです。なんてえらそうな感想なんだ。\u003cbr\u003e\n　まあでも小説ってそういうものか、秋山作品の語り手ってけっこう自由にふるまうもんな……と読み進めました。そういう箇所って、たいていは忘れるか気になっていてもそのままにしてしまいがちです。\u003cbr\u003e\n　ただな、なんかな、そういう読み方って自堕落なのではないかと思うてな……オタクの深読みと誹られようと、小説を読むことや小説を書くことを舐めてはいけないと思うのじゃよね……。\u003cbr\u003e\n　だってそれは他人を侮ることにつながるでしょう？　まあ他人を理解できると思いこむこともそれは侮りなのだけれども……だけれどもねえ！\u003cbr\u003e\n　というわけで秋山瑞人の文体そのものの話はいつかやれたらやります。理解したと思いこめたそのときに……。\u003c/p\u003e","title":"だいたい2ページだけ読む『鉄コミュニケイション（２）チェスゲーム』"},{"content":"\n前書き Hugoでは Render hooks を利用してObisidianのCallouts記法をそのまま採用できる。 この機能はデフォルトでONになっているわけではなく、使用者が自分で対応する必要がある。 もしくは有志が作成したHugo-admonitionsというモジュールを使う手もある。今回はこちらを選択した。 Hugo-admonitionsには豊富な[!TIP]や[!CAUTION]だけでなく、[!TASK]や[!CODE]など、21種類のCalloutsに対応している。詳しくは作者であるKKKZOZ氏の GitHub をチェック。 Multi-language SupportにJapaneseは含まれていないが、今のところ問題はなさそう。 Hugo-admonitionsをGit submoduleとしてインストールする Info Hugoのバージョン：v0.166+extend Hugoで使用しているテーマ：PaperMod 使用しているホスティングサービス：GitHub Pages Hugo-admonitionsをテーマとしてではなくGit submoduleとしてインストールする理由は以下 テーマやモジュールをサイト本体のリポジトリにコピーせず、それぞれのバージョンをGitで管理しやすくするため 使っているHugoサイトのルートディレクトリで、Powershellなどからgit submodule add --depth 1 https://github.com/KKKZOZ/hugo-admonitions.git themes/hugo-admonitionsを実行 git submodule statusでHugo-admonitionsがsubmoduleとして登録され、コミットIDが表示されていることを確認 適当なテキストエディタでhugo.tomlを開き、使用しているテーマを記入している箇所にhugo-admonitionsを追加。たとえば、theme = \u0026lsquo;PaperMod\u0026rsquo; であれば、その行を theme = [\u0026lsquo;hugo-admonitions\u0026rsquo;, \u0026lsquo;PaperMod\u0026rsquo;] に差し替える（hugo-admonitionsが、使用しているテーマよりも必ず先＝左側に来るようにする）。 ローカルでCalloutsが動作していることを確認したら、変更をgit addしてcommitしてpush これでおそらくコールアウトがHugoでも使えるようになるはず。\nCalloutsの開閉がうまく機能しない ObsidianのCalloutsでは[!TIP]+や[!INFO]-のようにして、コールアウトが「デフォルトで展開した状態にするか、折りたたんだ状態にするか」を制御できる。 hugo-admonitionsのGitHubにも、Foldable Admonitionsとして紹介されているのだが、自分の環境では+-どちらを置いても閉じたままで表示されてしまった。 おま環か仕様かは不明（たしかにGitHubの当該箇所にあるサンプル画像をみると、+と-のどちらでもコールアウトは閉じている）。 対策 コールアウトに+がつけられている場合だけ、デフォルトで展開した状態にするように指定する。 Hugoではサイト側のレイアウトに同名のファイルを置くことで、テーマ側のテンプレートを上書きできる。 themes\\hugo-admonitions\\layouts\\_default\\_markupにある、render-blockquote-alert.htmlを、サイト側のlayouts/_default/_markup/にコピー コピーした方のrender-blockquote-alert.htmlをテキストエディタで開いて、\u0026lt;details class=\u0026quot;admonition {{ $type }}\u0026quot;\u0026gt;を、\u0026lt;details class=\u0026quot;admonition {{ $type }}\u0026quot;{{ if eq .AlertSign \u0026quot;+\u0026quot; }} open{{ end }}\u0026gt;に変更 ローカルでCalloutsの開閉が動作していることを確認したら、変更をgit addしてcommitしてpush デフォルトでOpenにできました🎊\nやったね🎉\n","permalink":"https://tano-shiina.com/2026/09/29/wepvf6x7/","summary":"\u003cp\u003e\u003cimg loading=\"lazy\" src=\"/images/posts/wepvf6x7/ogp.png\"\u003e\u003c/p\u003e\n\u003ch2 id=\"前書き\"\u003e前書き\u003c/h2\u003e\n\u003cul\u003e\n\u003cli\u003eHugoでは\u003ca\n  href=\"https://gohugo.io/render-hooks/blockquotes/#alerts\"\n    target=\"_blank\"\n    rel=\"noopener noreferrer\"\n\u003e\n  Render hooks\n\u003c/a\u003eを利用してObisidianのCallouts記法をそのまま採用できる。\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003eこの機能はデフォルトでONになっているわけではなく、使用者が自分で対応する必要がある。\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003eもしくは有志が作成したHugo-admonitionsというモジュールを使う手もある。今回はこちらを選択した。\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003eHugo-admonitionsには豊富な\u003ccode\u003e[!TIP]\u003c/code\u003eや\u003ccode\u003e[!CAUTION]\u003c/code\u003eだけでなく、\u003ccode\u003e[!TASK]\u003c/code\u003eや\u003ccode\u003e[!CODE]\u003c/code\u003eなど、21種類のCalloutsに対応している。詳しくは作者であるKKKZOZ氏の\u003ca\n  href=\"https://github.com/KKKZOZ/hugo-admonitions\"\n    target=\"_blank\"\n    rel=\"noopener noreferrer\"\n\u003e\n  GitHub\n\u003c/a\u003eをチェック。\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003eMulti-language SupportにJapaneseは含まれていないが、今のところ問題はなさそう。\u003c/li\u003e\n\u003c/ul\u003e\n\u003ch2 id=\"hugo-admonitionsをgit-submoduleとしてインストールする\"\u003eHugo-admonitionsをGit submoduleとしてインストールする\u003c/h2\u003e\n\n            \u003clink rel=\"stylesheet\" href=\"/css/vendors/admonitions.min.364ef4282de967778e4920f8ae18cc1b92b0c0b58b34b66fc17619dabfd48b6e.css\" integrity=\"sha256-Nk70KC3pZ3eOSSD4rhjMG5KwwLWLNLZvwXYZ2r/Ui24=\" crossorigin=\"anonymous\"\u003e\n    \u003cdiv class=\"admonition info\"\u003e\n      \u003cdiv class=\"admonition-header\"\u003e\u003csvg xmlns=\"http://www.w3.org/2000/svg\" viewBox=\"0 0 512 512\"\u003e\u003cpath d=\"M256 512A256 256 0 1 0 256 0a256 256 0 1 0 0 512zM216 336l24 0 0-64-24 0c-13.3 0-24-10.7-24-24s10.7-24 24-24l48 0c13.3 0 24 10.7 24 24l0 88 8 0c13.3 0 24 10.7 24 24s-10.7 24-24 24l-80 0c-13.3 0-24-10.7-24-24s10.7-24 24-24zm40-208a32 32 0 1 1 0 64 32 32 0 1 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たんに.mdのファイルをウェブサイトの1ペーて扱いたいだけなら、HugoやAstroといった他の主要なSSGであっても対応しています。ここで問題になるのはObsidian独自の記法です。\nたとえばObsidianは内部リンクにwikilink記法（ダブルブラケットで対象の単語を囲むやつ）を採用しているのですが、あれは他のMarkdownにはないんですね。一般的なMarkdownのリンクはどれもObisidianにおける外部リンクのような、[表示文字](相対パス.md)みたいなものしかない（こういう違いが引き起こす面倒を避けたい人向けに、Obisidianは設定で「ウィキリンクを使用」のオン・オフを切り替えられるようになっている）。\nだから普通はObsidianのノートをアップしたいと思ったら、いちいちダブルブラケットを消したり、リンクを貼りなおしたりしなくちゃいけない。\n他にもコールアウトや==こうやって==イコール2つで囲むタイプのハイライトとか……。直さなくてはいけない箇所って意外と多い。\nCalloutsが使えるようになるHugo admonitionsを導入する HugoでObsidianのCallouts記法を使うために、KKKZOZ氏が作成したHugo admonitionsを導入する プラグインや自作のプログラムを使ってそういうのを一括で変換する仕組みを確保することはできるのですが、ひと手間かかるのは事実です（「AIにやらせたら？」というのはまあそう。でも意外な見落としが多くて面倒なんだよな、そもそもその記法を使ってたことを忘れてるとか……）。\nQuartzではそういう手間暇を省略できるのは明確なメリットだと思います。せっかく自分で構築したノートシステムをわざわざ解体して組み直すのは、なんというか本質的ではない。\n「手入れ」を前提とした執筆システム とにかく気軽に書ける。「ちゃんとした記事をあげなきゃ」圧が体幹として低い。これが大きい。Obsidian記法が流用できることより、こっちのほうが圧倒的なメリットだと思う。\nQuartzはその 哲学 の根幹にデジタルガーデン1があります。「なにそれなんだかよくわからん」という人は（おもにひとりでやる）wikiだと思えばよい。\nwikiって、一読者としては「記事を読みにいく」って感じではなくないですか？　あくまで「情報を見にいく」って感じ。\nで、別に情報が欠けてるページがあったとしても「まだ手が回ってないんだな～」と思っておしまい。そのあたりがあきらかにブログとはちがう。2\nこれを逆に書き手の立場から考えると、ブログ記事を仕上げるよりよほど気楽な話で、まずちゃんとした内容を書く必要がなくなる。ただ概要や外部リンクが置かれただけの断片でも、「公開したい」と思ったならやっていい。3\nデジタルガーデンにかぎらず、自分の書いたテキストを「完成品」ではなく、「世話をし続けるもの」「手直しし続けるもの」としてとらえるのはノート術によくみられる特徴ですが、それにくわえてQuartzは「文章を公開するという行い」にまつわる気持ちの重さを、すこしだけやわらげてくれます。なぜなら「このQuartzという便利ツールは、デジタルガーデンをネット上で公開するためにデザインしたものですよ」というお墨付きをくれるわけですから。「訂正可能性」という考えに惹かれるひとにはいいのかもしれない。\n完全さを目指す必要がない。人に読ませるための文章に整形しなくていい。あるていど長い文章じゃないとな～という変な使命感をおぼえなくていい（さすがに他人を騙すつもりの嘘とかはどうかと思いますが）。\nそう。たとえばリンクをクリックしたら画像大喜利だった、とかでもかまわない。もちろん普通のブログで画像大喜利してもいい4んですが、画像１枚にひと言だけ添えてある、それだけのページ……みたいなのがやりやすいのはQuartzでしょう。\n「そんなもんのなにがデジタルガーデンなんじゃい」といわれると弱ってしまうが……。\nでもものすごく真面目な本について、ものすごく真面目で丁寧な感想が書いてあるエントリのリンクをなにげなくクリックして、そこにダジャレが書いてあったら、不意をうたれてきっとめためたに笑っちゃうと思う。そういうことで笑える人間でありたいものだよな。5\nだれかから「なにこれ？」って聞かれても、「いやまあそういうページだし」「個人wikiなんだからいいでしょ」でかわせる。本当にかわせるかはわからないけど、開き直れる。不完全な文章を書いた責任を、ほんのちょっとだけシステム側に寄せることができる。\n他人が文責を負ってくれるというわけではないです。当たり前。しかし、この「ブログっぽいことを書かなくてもいい」というささやかな身軽さは、Quartzの、ひいてはデジタルガーデンをネット上でやることのメリットじゃないかなと思います。\n【閑話】v5のカスタマイズについて この記事を書いている時点 (2026/09末) 時点でQuartzのバージョンはv5なのですが、これがけっこう大きな変更だったみたいで、カスタマイズの方法について普通に検索するとなかなか詳しい情報が得られず苦労しました。過渡期だからか、v4以前の情報が混ざってしまう。\n有識者的にはv5のほうがカスタマイズが簡単になってるらしいですが、きっと過渡期なのでしょう。また、 先駆者の方 によると、Codexを使ったら簡単だったっぽい（まあそれでもPaperModひいてはHugoのほうが簡単だったけど……）。\nそちらのサイトでも書かれているように、QuartzはObsidianのコミュニティプラグインに対応しているわけではないので、とくに見た目まわりで困ってる人は意固地にならず、プログラミングに特化したAIに投げちゃうくらいがいいかもですね。\n関係ないですがリンク先のサイトでこの記事読んだらおもしろかったです。見ることのおもしろさってこういうところですよね。紹介されているマーティン・パーのインタビューも読めてよかった。\nParrのユニクロTシャツにアングルを見つけた | 無聊写記 Parr のユニクロTシャツの購入をきっかけに、その被写体となった少女とアングルの作品からParrの作品世界を分析し、ユニクロとルーヴルのパートナーシップからParrを通して生まれたこのTシャツが商品化されたいきさつを解説する。 マーティン・パーと歩くルーヴル美術館｜UNIQLO TODAY'S PICK UP ルーヴル美術館とのコラボレーションによる唯一無二のUTが完成したのち、伝説的写真家マーティン・パーは、昨年12月、惜しまれながらこの世を去った。その功績を偲び、ここに深い敬意を表したい。マーティンは生前、本プロジェクトのために撮り下ろしたルーヴル美術館での体験や、自身の作品についてUTに語ってくれた... 合わなかったところ 空のページが大量にできあがってしまう わたしがつかっているObsidianには、バックリンクを取得するためにつくったファイル名以外には中身がない空のノートや、「必要になったら書こ～」とダブルブラケットで囲んで記しているけれどまだ実体は存在していない未作成ノート6が大量にあります。\nローカルで使ってるならそれでいい。でも、それらをそのまま同期させてネットにあげたらどうなってしまうか。\nできあがったたくさんの無のページにたいして知らん顔している度胸は……あたしにはなかったんすよね。\nいちいちリンクやページの要・不要を判断するのもコストがかさむし、ネットにアップした際のことを考えてふだんの使い方を変えるのは本末転倒だし……。\nていうか、それやるくらいならもうダブルブラケットを一括で削除したほうが早い！→だったらもうQwartzにこだわらなくてよくないか！？？\nこうなってしまったわけよ。\nつまり、今さらだけど、Obsidianと（伝統的な？）衆目に晒すタイプのウェブサイトでは、人間がリンクに持たせている意味あいが違うわけです。だからそのまま丸ごとあげようとしたら通用しない。\n実際、海外も含めて先達の方々の使用例を見ていても、ほぼブログみたいな使い方してる人が目につきがちなんですよね。ぬ～ん。\nこれは「完全さを目指さなくていい」「アップデートしていけばいい」というデジタルガーデンの長所がもつ裏面ですね。さすがに中身がゼロのページだらけなのは……どうしても違和感あるものな。7サボってるお前が悪い、それはおっしゃるとおりです。\nもちろん、そのへんがなーんにも気にならない人であれば問題ない。Quartz試してみてください。まあ大量の空ページができあがったところでさほど実害はないだろうし……（SEOに影響あたえたりするのか？　でもSEOを気にする人はそもそもQwartzやらないかもしれん）。\n結びに なんかこうやって書いてみると、Quartzがどうこうというより、あたしが惰弱なだけの気がしてきたな……。\nようするにあたしは、\n普段からすみずみまでノートをとるほど勤勉でもない 個人サイトにあげる文章は「こういうものである」という規範意識から脱せれていない 他人の目を完全に無視して「書く」という行為に没入できていない そんなかんじなのでQuartzの哲学にフィットできなかったのでしょう。他の人の参考にしてもらおうと半ば善意で書きはじめた8のに、まさか自分の情けなさを痛感することになるとは。いや、まいったね。9\nようするにさぁ……根性が足りないよ根性が。\nやっぱりデジタルガーデン部の1年にデジタル庭いじりなんてはえーんだよな。アナログ庭いじりで庭いじりのなんたるかを学ぶべき。終わったらランニングして、そのあと先輩のデジタル筆記具磨いとけよな。\nみんな本当に庭の比喩が好きだな。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n使っているツールや媒体によって「書く」「読む」という行為が変化する面はぜったいにある。ObsidianであれだけThinoプラグインが人気なのはUIがXに似ているからなんですよ。みんなXが「ちゃんとした文章を書かなきゃいけない場所」だとは思っていないおかげで、無意識のうちに「雑にメモを取る」練習につながっていたのだと思う。それが幸か不幸かわからないけど。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nQuartz（を始めとしたSSG）、やろうと思えば普段からつかってるObsidianのVaultをそのまま同期対象のフォルダに指定できるのですが、その場合はうっかり個人情報を含んだファイルをアップしないように……気をつけてね！\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nそもそも普通のブログでツェッテルカステンやったり、逆にQuartzでいかにもブログって感じの運用してもいいんですけどね。探せば実際にいるでしょう（プログラマのみなさんとかそんな感じよね。ある問題にどう対処したかだけが端的に載っている）。でも改めてなんというかこう……やっぱり「何で書くか」「どこで書くか」って人間をけっこうな強さで拘束してるんだなーと思います。あたしが規範に弱いだけかも。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nここまで書いて気づいたけど、あたしはいまだに「ネットにあがった文字は人間が書くもの・読むもの」という前時代的前提のもとでこのエントリを書いとるな。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n前者はファイル名しかないノート。人物を始めとした固有名詞ページが主。後者はダブルブラケットを使って記してあるが実体はVaultにまだ存在していないノートのこと。「このリンクがつけられたノートが増えてきたな」と思ったタイミングでノート化したりMoCにしたりする。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nこれってけっきょく他人の目を気にしてるわけで、従来の読者を意識したブログ的な価値観から脱せてない、デジタルガーデンをやるにあたっての気概が足りてないんすよね。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nこういうとこだぞ。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n「じゃあ空のページはAIに適当に埋めてもらおう」は解決になるだろうか？　それでもけっきょく判断のコストが人間側にあるのは変わらないと思うんだよなー。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","permalink":"https://tano-shiina.com/2026/09/27/0fhzhj3l/","summary":"\u003cp\u003e\u003cimg loading=\"lazy\" src=\"/images/posts/0fhzhj3l/ogp.png\"\u003e\u003c/p\u003e\n\u003ch2 id=\"前書き\"\u003e前書き\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e　このサイトはHugoというSSG（静的サイトジェネレータ）のPaperModというテーマを使っているのですが、それ以前にはほんの一瞬（ほんとうに一瞬）だけQuartzというSSGを使用していました。\u003cbr\u003e\n　\u003cbr\u003e\n　で、なんで乗り換えたかというと、ちょっとハードコアなんですね、Quartzって。そこが魅力でもあるんですけど。\u003cbr\u003e\n　Quartzを選ぶべきかどうかは、「デジタルガーデンの哲学にどれだけ自分がコミットできるのか？」が基準になると思います。そのあたりを熟考して普通の「ブログでいいかも……」となるならそっちを選ぶ、みたいな。\u003cbr\u003e\n　\u003cbr\u003e\n　というわけで以下ではQuartzを体験して感じたよかったところ、自分に合わなかったところを具体的に挙げていきます。あたしは技術者ではないので、結果として執筆への向き合い方がメインの話になった。\u003c/p\u003e\n\u003ch2 id=\"よかったところ\"\u003eよかったところ\u003c/h2\u003e\n\u003ch3 id=\"obsidianの記法がそのまま使える\"\u003eObsidianの記法がそのまま使える\u003c/h3\u003e\n\u003cp\u003e　たんに.mdのファイルをウェブサイトの1ペーて扱いたいだけなら、HugoやAstroといった他の主要なSSGであっても対応しています。ここで問題になるのはObsidian独自の記法です。\u003cbr\u003e\n　たとえばObsidianは内部リンクにwikilink記法（ダブルブラケットで対象の単語を囲むやつ）を採用しているのですが、あれは他のMarkdownにはないんですね。一般的なMarkdownのリンクはどれもObisidianにおける外部リンクのような、\u003ccode\u003e[表示文字](相対パス.md)\u003c/code\u003eみたいなものしかない（こういう違いが引き起こす面倒を避けたい人向けに、Obisidianは設定で「ウィキリンクを使用」のオン・オフを切り替えられるようになっている）。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　だから普通はObsidianのノートをアップしたいと思ったら、いちいちダブルブラケットを消したり、リンクを貼りなおしたりしなくちゃいけない。\u003cbr\u003e\n　他にもコールアウトや==こうやって==イコール2つで囲むタイプのハイライトとか……。直さなくてはいけない箇所って意外と多い。\u003c/p\u003e\n\u003ca class=\"article-card\" href=\"https://tano-shiina.com/2026/09/29/wepvf6x7/\" target=\"_blank\" rel=\"noopener noreferrer\"\u003e\n  \u003cimg class=\"article-card-image\" src=\"https://tano-shiina.com/images/posts/wepvf6x7/ogp.png\" alt=\"\"\u003e\n  \u003cspan class=\"article-card-content\"\u003e\n    \u003cspan class=\"article-card-title\"\u003eCalloutsが使えるようになるHugo admonitionsを導入する\u003c/span\u003e\n    \u003cspan class=\"article-card-description\"\u003eHugoでObsidianのCallouts記法を使うために、KKKZOZ氏が作成したHugo admonitionsを導入する\u003c/span\u003e\n  \u003c/span\u003e\n\u003c/a\u003e\n\u003cp\u003e　プラグインや自作のプログラムを使ってそういうのを一括で変換する仕組みを確保することはできるのですが、ひと手間かかるのは事実です（「AIにやらせたら？」というのはまあそう。でも意外な見落としが多くて面倒なんだよな、そもそもその記法を使ってたことを忘れてるとか……）。\u003cbr\u003e\n　\u003cbr\u003e\n　Quartzではそういう手間暇を省略できるのは明確なメリットだと思います。せっかく自分で構築したノートシステムをわざわざ解体して組み直すのは、なんというか本質的ではない。\u003c/p\u003e\n\u003ch3 id=\"手入れを前提とした執筆システム\"\u003e「手入れ」を前提とした執筆システム\u003c/h3\u003e\n\u003cp\u003e　とにかく気軽に書ける。「ちゃんとした記事をあげなきゃ」圧が体幹として低い。これが大きい。Obsidian記法が流用できることより、こっちのほうが圧倒的なメリットだと思う。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　Quartzはその\u003ca\n  href=\"https://quartz.jzhao.xyz/philosophy\"\n    target=\"_blank\"\n    rel=\"noopener noreferrer\"\n\u003e\n  哲学\n\u003c/a\u003eの根幹にデジタルガーデン\u003csup id=\"fnref:1\"\u003e\u003ca href=\"#fn:1\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e1\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003eがあります。「なにそれなんだかよくわからん」という人は（おもにひとりでやる）wikiだと思えばよい。\u003cbr\u003e\n　\u003cbr\u003e\n　wikiって、一読者としては「記事を読みにいく」って感じではなくないですか？　あくまで「情報を見にいく」って感じ。\u003cbr\u003e\n　で、別に情報が欠けてるページがあったとしても「まだ手が回ってないんだな～」と思っておしまい。そのあたりがあきらかにブログとはちがう。\u003csup id=\"fnref:2\"\u003e\u003ca href=\"#fn:2\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e2\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　これを逆に書き手の立場から考えると、ブログ記事を仕上げるよりよほど気楽な話で、まずちゃんとした内容を書く必要がなくなる。ただ概要や外部リンクが置かれただけの断片でも、「公開したい」と思ったならやっていい。\u003csup id=\"fnref:3\"\u003e\u003ca href=\"#fn:3\" class=\"footnote-ref\" 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class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e5\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　だれかから「なにこれ？」って聞かれても、「いやまあそういうページだし」「個人wikiなんだからいいでしょ」でかわせる。本当にかわせるかはわからないけど、開き直れる。不完全な文章を書いた責任を、ほんのちょっとだけシステム側に寄せることができる。\u003cbr\u003e\n　他人が文責を負ってくれるというわけではないです。当たり前。しかし、この「ブログっぽいことを書かなくてもいい」というささやかな身軽さは、Quartzの、ひいてはデジタルガーデンをネット上でやることのメリットじゃないかなと思います。\u003c/p\u003e\n\u003ch2 id=\"閑話v5のカスタマイズについて\"\u003e【閑話】v5のカスタマイズについて\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e　この記事を書いている時点 (2026/09末) 時点でQuartzのバージョンはv5なのですが、これがけっこう大きな変更だったみたいで、カスタマイズの方法について普通に検索するとなかなか詳しい情報が得られず苦労しました。過渡期だからか、v4以前の情報が混ざってしまう。\u003cbr\u003e\n　有識者的にはv5のほうがカスタマイズが簡単になってるらしいですが、きっと過渡期なのでしょう。また、\u003ca\n  href=\"https://blog.hyodo-arch.com/about\"\n    target=\"_blank\"\n    rel=\"noopener noreferrer\"\n\u003e\n  先駆者の方\n\u003c/a\u003eによると、Codexを使ったら簡単だったっぽい（まあそれでもPaperModひいてはHugoのほうが簡単だったけど……）。\u003cbr\u003e\n　そちらのサイトでも書かれているように、QuartzはObsidianのコミュニティプラグインに対応しているわけではないので、とくに見た目まわりで困ってる人は意固地にならず、プログラミングに特化したAIに投げちゃうくらいがいいかもですね。\u003cbr\u003e\n　\u003cbr\u003e\n　関係ないですがリンク先のサイトでこの記事読んだらおもしろかったです。見ることのおもしろさってこういうところですよね。紹介されているマーティン・パーのインタビューも読めてよかった。\u003c/p\u003e\n\u003ca class=\"article-card\" href=\"https://blog.hyodo-arch.com/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88/parr%E3%81%AE%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%83%ADt%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%84%E3%81%AB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%82%92%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%9F\" target=\"_blank\" rel=\"noopener noreferrer\"\u003e\n  \u003cimg class=\"article-card-image\" src=\"https://blog.hyodo-arch.com/static/og-image.png\" alt=\"\"\u003e\n  \u003cspan class=\"article-card-content\"\u003e\n    \u003cspan class=\"article-card-title\"\u003eParrのユニクロTシャツにアングルを見つけた | 無聊写記\u003c/span\u003e\n    \u003cspan class=\"article-card-description\"\u003eParr 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role=\"doc-noteref\"\u003e7\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003eサボってるお前が悪い、それはおっしゃるとおりです。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　もちろん、そのへんがなーんにも気にならない人であれば問題ない。Quartz試してみてください。まあ大量の空ページができあがったところでさほど実害はないだろうし……（SEOに影響あたえたりするのか？　でもSEOを気にする人はそもそもQwartzやらないかもしれん）。\u003c/p\u003e\n\u003ch2 id=\"結びに\"\u003e結びに\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e　なんかこうやって書いてみると、Quartzがどうこうというより、あたしが惰弱なだけの気がしてきたな……。\u003cbr\u003e\n　ようするにあたしは、\u003c/p\u003e\n\u003cul\u003e\n\u003cli\u003e普段からすみずみまでノートをとるほど勤勉でもない\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003e個人サイトにあげる文章は「こういうものである」という規範意識から脱せれていない\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003e他人の目を完全に無視して「書く」という行為に没入できていない\u003c/li\u003e\n\u003c/ul\u003e\n\u003cp\u003e　そんなかんじなのでQuartzの哲学にフィットできなかったのでしょう。他の人の参考にしてもらおうと半ば善意で書きはじめた\u003csup id=\"fnref:8\"\u003e\u003ca href=\"#fn:8\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e8\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003eのに、まさか自分の情けなさを痛感することになるとは。いや、まいったね。\u003csup id=\"fnref:9\"\u003e\u003ca href=\"#fn:9\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e9\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003cbr\u003e\n　\u003cbr\u003e\n　ようするにさぁ……根性が足りないよ根性が。\u003cbr\u003e\n　やっぱりデジタルガーデン部の1年にデジタル庭いじりなんてはえーんだよな。アナログ庭いじりで庭いじりのなんたるかを学ぶべき。終わったらランニングして、そのあと先輩のデジタル筆記具磨いとけよな。\u003c/p\u003e","title":"静的サイトジェネレータのQuartzを試したときの感想を書く"},{"content":" 表紙イラスト：メグリム・ハルヨ 前書き 2026/05/04に文学フリマ東京にて頒布された、「吸血鬼」をテーマに4人の作者によって書き下ろした短編を収録した文芸同人誌。2026/09/11現在Boothで購入可能です。\n全体についての総括は最後に回すとして、個人的に少し意外だったのは、記憶や記録にまつわる話が多くなっていたことでしょうか。もちろんそのあたり吸血鬼の不老不死性からきているわけですが……もしかしたら小説という媒体がそうさせたのかもしれないですね。\n以下は各編の感想です。敬称は略しています。\n各編の感想 坂永雄一「Catalogus Marginum」 ウィーン在であった文献学者であるラザルス・ペルガメントなる人物によって1938年したためられた草稿……という体裁をとった小説。\nタイトルのCatalogusから察せられるように、ペルガメントが蒐集した古今の文書――たとえば紀元前後に存在していたという虚無宗派による説教録や、『千夜一夜物語』の異本やら（といった架空の文献）のなかから、 \u0026ldquo;ある点\u0026rdquo; に着目したものが集められ並べられています。\nその \u0026ldquo;ある点\u0026rdquo; こそが本アンソロジーのテーマである「吸血鬼」の存在……なのですが、その記述がなぜかどれもいまいち判然としません。滲んだり中途で欠落したりしている。どうやらこの世界の吸血鬼は、人の手による記述を拒むような性質を持っているらしい。\n前書きにも書いたように「吸血鬼設定をどう扱うのか」が腕の見せどころなわけですが、本作では吸血鬼をある別の生物と結びつけます。そこがシンプルに巧い。\nネタバレするのもなんなのでぼんやりとした言い方になってしまうのですが……1つだけじゃなくて複数のアナロジーでつないでいて、そのうえちょっと意外性もある。\nなにより吸血鬼がちゃんと不気味に描かれているのもよいですね。\n尾雛茉那「ツヴィンガーの幽霊」 第二次世界大戦末期のドレスデン。戦禍に備えてドイツ軍の兵士たちが、ザクセン選帝侯時代に集められた貴重な美術品を坑道へと移動させているところから物語は始まります。\nあくまでわたしの勝手な読解なのですが、たぶんこの小説の中心にあるのは「戦争」なのだと思います。1756年から始まった七年戦争、ナポレオン侵攻による1813年のドレスデンの戦い、そして1945年のドレスデン爆撃。三度の戦禍に見舞われながら復興するドレスデンの街そのものが、おそらく「吸血鬼」の不死性と重ね合わされている。\nでは、この諸説に吸血鬼そのものは出てこないのか？　いえ、ちゃんと出てきます。そして、これもまたきっと戦争というテーマとの関わりなのです。\n誰からも顧みられることなく忘れ去られたまま終わるはずの存在が、歴史の片隅にたしかに記録されること。1美術品が重要なモチーフとして出てくるのも、短編の最後の一文に「忘れる」という言葉が出てくるのも、やはり破壊と記憶が問題だからなのではないでしょうか。\n茂木英世「ビーバップ・ヴァンプ」 紀元前から存在していたらしい吸血鬼の出自を、ノアの方舟に見捨てられた男と、謎めいた一基の棺との邂逅から描き出した――\nかと思うと、次の章では吸血鬼が宇宙に飛び出してるわ、巨大怪獣（厳密には怪獣ではないらしいけど）とのバトルが始まるわ、巨大ロボットが出てくるわ、百合が始まるわ……とにかく作者が好きなものを詰め込んだであろうことがうかがえる短編です（もしかして、だから「ビーバップ」？）。\nこういうノリの短編って読者が作者のイメージを共有できるか、もっと簡単にいえばいっしょになって盛りあがれるかが大事だと思うのですが、その点、本作では「宇宙空間を進む棺桶」のケレン味や「星命体」まわりの設定の魅力が小説を支えているなと思いました。たとえば28ページのこことか。\n吸血鬼は血を吸う。血は鉄の味がする。恒星は鉄に至って終わり、拡散したそれは新しい星に引き継がれていく。ならば血を流す生命は、みな星を宿しているようなものだ。2\nこういうポエジーが感じられる飛躍があると読者としてはうれしい。\n呉衣悠介「認知症の吸血鬼」 吸血鬼と人間が（おそらく）共存している世界で、認知症に陥った吸血鬼を処理する警備会社――といってもヤクザかギャングくずれみたいな描写のされ方（\u0026ldquo;根性焼き\u0026rdquo; のアイディアのすばらしさ！）なのだけど、とにかくそのロクヨン警備に勤める吸血鬼の「おれ」による一人称小説。本アンソロジーではゆいいつ日本が舞台になっています。\nあんたたちには知りようもないことだが、ハイブから出る方法はない。3\nという印象的なリフレインをはじめとした文体の魅力はもちろん、シチュエーションの設定も気が利いています。人の退去したショッピングモールのキッズコーナーでの銃撃に、それから……まあ読んでほしいのでこれ以上は言いませんが。\nプロ・アマ問わず、小説って「場」にたいする意識があまり高くないような気がしていて4、だからこそこういう小説を読むとうれしくなりますね。たんじゅんに読んでいて楽しいって立派なことだ。\n映像作品への言及や引用もいくつか見られるのですが、個人的にいちばん「おっ」と思わされたのはリミナルスペースに関してのものでしょうか。\nこの概念って今のところ若い世代を中心に人気みたいなんですけど、その実ものすごく認知症的なイメージなのではないかなと（気づくの遅すぎるか？）。なつかしさ、不気味さ、違和感、見慣れないのに襲ってくる既視感、出口のない閉塞感。\n結び おもしろかった～。\nこうしたアンソロジーの良いところは決まったお題にたいするアプローチの違いが楽しみなわけですが、その欲望を満たしてくれる4作でした。各編それぞれ文体もばらけていて、よい短編集になっていると思います。\nFUN-GUS Vol.2 - クラゲノキ - BOOTH テーマは\"吸血鬼\"。 過去現在未来の夜の王が舞う小説4作を収録。A5版60ページ800円。 しかしこのように自分なりの解釈を進めていくと、「ではこの小説で全知的にふるまう語り手はいったいだれなのだろう？」という疑問に行き着くわけですが、ちょっとそのあたりはわからなかった（やはり神か天使？）\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n茂木英世著「ビーバップ・ヴァンプ」, 『FUN-GUS Vol.2』所収, クラゲノキ, 2026年5月, 28ページ\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n呉衣悠介「認知症の吸血鬼」, 『FUN-GUS Vol.2』所収, クラゲノキ, 2026年5月, 39ページ\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nまあ文学だとえんえん風景を描写してる小説は現代でもありますが、あれらはまた別。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","permalink":"https://tano-shiina.com/2026/09/26/q4v8n3cd/","summary":"\u003cfigure\u003e\n  \u003ca href=\"https://booth.pm/ja/items/8711025\"\u003e\n    \u003cimg src=\"/images/posts/q4v8n3cd/ogp.jpeg\" alt=\"クラゲノキ『FUN-GUS Vol.2』表紙画像\"\u003e\n  \u003c/a\u003e\n    \u003cfigcaption\u003e表紙イラスト：メグリム・ハルヨ\u003c/figcaption\u003e\n\u003c/figure\u003e\n\u003ch2 id=\"前書き\"\u003e前書き\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e　2026/05/04に文学フリマ東京にて頒布された、「吸血鬼」をテーマに4人の作者によって書き下ろした短編を収録した文芸同人誌。2026/09/11現在Boothで購入可能です。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　全体についての総括は最後に回すとして、個人的に少し意外だったのは、記憶や記録にまつわる話が多くなっていたことでしょうか。もちろんそのあたり吸血鬼の不老不死性からきているわけですが……もしかしたら小説という媒体がそうさせたのかもしれないですね。\u003cbr\u003e\n　以下は各編の感想です。敬称は略しています。\u003c/p\u003e\n\u003ch2 id=\"各編の感想\"\u003e各編の感想\u003c/h2\u003e\n\u003ch3 id=\"坂永雄一catalogus-marginum\"\u003e坂永雄一「Catalogus Marginum」\u003c/h3\u003e\n\u003cp\u003e　ウィーン在であった文献学者であるラザルス・ペルガメントなる人物によって1938年したためられた草稿……という体裁をとった小説。\u003cbr\u003e\nタイトルのCatalogusから察せられるように、ペルガメントが蒐集した古今の文書――たとえば紀元前後に存在していたという虚無宗派による説教録や、『千夜一夜物語』の異本やら（といった架空の文献）のなかから、 \u0026ldquo;ある点\u0026rdquo; に着目したものが集められ並べられています。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　その \u0026ldquo;ある点\u0026rdquo; こそが本アンソロジーのテーマである「吸血鬼」の存在……なのですが、その記述がなぜかどれもいまいち判然としません。滲んだり中途で欠落したりしている。どうやらこの世界の吸血鬼は、人の手による記述を拒むような性質を持っているらしい。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　前書きにも書いたように「吸血鬼設定をどう扱うのか」が腕の見せどころなわけですが、本作では吸血鬼をある別の生物と結びつけます。そこがシンプルに巧い。\u003cbr\u003e\n　ネタバレするのもなんなのでぼんやりとした言い方になってしまうのですが……1つだけじゃなくて複数のアナロジーでつないでいて、そのうえちょっと意外性もある。\u003cbr\u003e\n　なにより吸血鬼がちゃんと不気味に描かれているのもよいですね。\u003c/p\u003e\n\u003ch3 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id=\"茂木英世ビーバップヴァンプ\"\u003e茂木英世「ビーバップ・ヴァンプ」\u003c/h3\u003e\n\u003cp\u003e　紀元前から存在していたらしい吸血鬼の出自を、ノアの方舟に見捨てられた男と、謎めいた一基の棺との邂逅から描き出した――\u003cbr\u003e\n　かと思うと、次の章では吸血鬼が宇宙に飛び出してるわ、巨大怪獣（厳密には怪獣ではないらしいけど）とのバトルが始まるわ、巨大ロボットが出てくるわ、百合が始まるわ……とにかく作者が好きなものを詰め込んだであろうことがうかがえる短編です（もしかして、だから「ビーバップ」？）。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　こういうノリの短編って読者が作者のイメージを共有できるか、もっと簡単にいえばいっしょになって盛りあがれるかが大事だと思うのですが、その点、本作では「宇宙空間を進む棺桶」のケレン味や「星命体」まわりの設定の魅力が小説を支えているなと思いました。たとえば28ページのこことか。\u003c/p\u003e\n\u003cblockquote\u003e\n\u003cp\u003e吸血鬼は血を吸う。血は鉄の味がする。恒星は鉄に至って終わり、拡散したそれは新しい星に引き継がれていく。ならば血を流す生命は、みな星を宿しているようなものだ。\u003csup id=\"fnref:2\"\u003e\u003ca href=\"#fn:2\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e2\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/blockquote\u003e\n\u003cp\u003e　こういうポエジーが感じられる飛躍があると読者としてはうれしい。\u003c/p\u003e\n\u003ch3 id=\"呉衣悠介認知症の吸血鬼\"\u003e呉衣悠介「認知症の吸血鬼」\u003c/h3\u003e\n\u003cp\u003e　吸血鬼と人間が（おそらく）共存している世界で、認知症に陥った吸血鬼を処理する警備会社――といってもヤクザかギャングくずれみたいな描写のされ方（\u0026ldquo;根性焼き\u0026rdquo; のアイディアのすばらしさ！）なのだけど、とにかくそのロクヨン警備に勤める吸血鬼の「おれ」による一人称小説。本アンソロジーではゆいいつ日本が舞台になっています。\u003c/p\u003e\n\u003cblockquote\u003e\n\u003cp\u003eあんたたちには知りようもないことだが、ハイブから出る方法はない。\u003csup id=\"fnref:3\"\u003e\u003ca href=\"#fn:3\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e3\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/blockquote\u003e\n\u003cp\u003e　という印象的なリフレインをはじめとした文体の魅力はもちろん、シチュエーションの設定も気が利いています。人の退去したショッピングモールのキッズコーナーでの銃撃に、それから……まあ読んでほしいのでこれ以上は言いませんが。\u003cbr\u003e\n　プロ・アマ問わず、小説って「場」にたいする意識があまり高くないような気がしていて\u003csup id=\"fnref:4\"\u003e\u003ca href=\"#fn:4\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e4\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e、だからこそこういう小説を読むとうれしくなりますね。たんじゅんに読んでいて楽しいって立派なことだ。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　映像作品への言及や引用もいくつか見られるのですが、個人的にいちばん「おっ」と思わされたのはリミナルスペースに関してのものでしょうか。\u003cbr\u003e\n　この概念って今のところ若い世代を中心に人気みたいなんですけど、その実ものすごく認知症的なイメージなのではないかなと（気づくの遅すぎるか？）。なつかしさ、不気味さ、違和感、見慣れないのに襲ってくる既視感、出口のない閉塞感。\u003c/p\u003e\n\u003ch2 id=\"結び\"\u003e結び\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e　おもしろかった～。\u003cbr\u003e\n　こうしたアンソロジーの良いところは決まったお題にたいするアプローチの違いが楽しみなわけですが、その欲望を満たしてくれる4作でした。各編それぞれ文体もばらけていて、よい短編集になっていると思います。\u003c/p\u003e\n\u003ca class=\"article-card\" href=\"https://booth.pm/ja/items/8711025\"  target=\"_blank\" rel=\"noopener noreferrer\"\u003e\n  \u003cimg class=\"article-card-image\" src=\"https://booth.pximg.net/c/620x620/670af6c2-ee1b-4c4e-95e5-3bc6ac6bf809/i/8711025/0627502b-fa87-4bca-af43-f9725a09b0f7_base_resized.jpg\" alt=\"\"\u003e\n  \u003cspan class=\"article-card-content\"\u003e\n    \u003cspan class=\"article-card-title\"\u003eFUN-GUS Vol.2 - クラゲノキ - BOOTH\u003c/span\u003e\n    \u003cspan class=\"article-card-description\"\u003eテーマは\"吸血鬼\"。 過去現在未来の夜の王が舞う小説4作を収録。A5版60ページ800円。 \u003c/span\u003e\n  \u003c/span\u003e\n\u003c/a\u003e\n\u003cdiv class=\"footnotes\" role=\"doc-endnotes\"\u003e\n\u003chr\u003e\n\u003col\u003e\n\u003cli 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教科書的な話題から入りましょう。なぜなら必要なので。すぐ終わります。\nツェッテルカステンはドイツの社会学者であるニクラス・ルーマンによって編み出されたメモ術です。\n学者、しかも社会学の。ツェッテルカステンについて考えるうえで、この点は見過ごせません。\nたとえば、読んだ本の主張を自分なりの言葉でパラフレーズする。その主張を実証する例、もしくは反証する例を集める。自分の見解を付け加える。元の本の出典を明記する。アナロジーによってリンクを張る。\nこれらはすべて論文を書くために最適化された方法です。とくにルーマンの専門である社会システム理論を展開するにはツェッテルカステンがひじょうに有用であることは想像に難くありません。\nそのツェッテルカステンはルーマン以外の人たちにも便利なものでした。きっと今でもそうなのでしょう。ですから、そこから発展して自己啓発書や情報商材のひとつとしても扱われるようになっていったことに、なんの不思議もありません。\nツェッテルカステンは以下のような売り文句とともに語られることが多いです。いわく、「問題を解決するための画期的なメモツール」「自分と深く対話するために必要な真に実践的な方法」などといったような。\nしかしそうなってしまうと語られるのが長所メインになってしまうんですね。あとはとうぜん具体的なメソッドの数々。精神的なフォローは「とにかく習慣化するまで手を動かせ」「メモがたくさん増えると創発が起こるから信じてやれ」が多いです。要するに「失敗を恐れるな、結果は後からついてくる」。これです。\n上記のようなアドバイスで励まされる人はそれでいいと思います（皮肉ではなく）。\n残念ながらわたしは違いました。いくらいわれても不安でしたし、ツェッテルカステンの効果について疑いの目を向けていました。正直にいえばまだ完全には信じていません。\nつまり、そう、時間と労力をかけて「失敗」したくなかったのです。そもそも、失敗が怖くないのであれば先人に教えを請うたりはしないのですから。\n「失敗を恐れるな」といわれると、失敗がよけいに悪いものに思えてくる。\nたとえばわたしにとっていちばんの難関は「アナロジーでリンクをつなぐ」ということでした。アナロジー（類推）は連想でもなければ単純な共通点でもありません。構造が似ている必要があるのです。ニュアンスとしては点ではなく線や面のレベルで似ている、という感じでしょうか。\n適切なアナロジーというのはほんとうに難しいです。自分を律しなければ凡庸で使い物にならないリンクができあがってしまう。雑語りや謎かけと見分けがつかなくなってしまう。SNSでも見かけませんか、急に関係ないこと繋げて自身の怒りにバフをかけている人。あれになっちゃいそうで不安。\nかといって厳密に見極めようとすると飛躍が足りなくなります。アナロジーの意味がないんですね。さらにもっと悪化すればリンクを張ることすらできなくなってしまう（だってちょっと考えれば両者が別物だなんてたいていの場合は自明ですから）。\n人間である以上、うまくアナロジーで繋げなかったリンクが発生してしまったり、隙の多い主張を高く評価してしまったりすることは避けられません。模範的なツェッテルカステンユーザーは、そうした人為的な誤りこそが思考の摩擦を生み、メモの群れが作り出すカオスに奉仕し、創発を促すのだというのかもしれません。だからこそ、「とにかく書かなければいけない」と。\nきっとそうに違いない。そうなのかもしれない。本当にそうかな？　失敗はやっぱり失敗なんじゃないだろうか。そこを認めてしまわないかぎり、私には自己との対話も、創発も、カオスも、なんだか遠いものに感じられる。\nもしかしたら最初は摩擦も創発やカオスといったワードも、失敗や不安をどうにかポジティブなものへと変換しようという先人たちの試みだったのかもしれません。ある種のパラフレーズですね。\nしかし、わたしのようなひねくれた人間には、その前向きさが逆に重たい。手が止まる原因になってしまう。\nであれば、やらなくてはいけません。わたしなりにツェッテルカステンの思想をパラフレーズし直してみることを。そのステップを経て初めて、自分にとってメモを取ることにどういう意義があるのかをつかめる気がする。\nその用途に最適だったのがわたしの場合は「ゲーム」という概念でした。それも「クソゲー」と呼ばれる類の。\n元からバランスを欠いたゲームなのだからうまくできなくても仕方ない。そんな諦めにも似た納得。わたしに必要だったのはそれです。\nパラフレーズ。抽象化。そして類推。話を少し先取りするならば、以下でわたしが書くことは、発想法としてはいかにもツェッテルカステン的な営みの実例です。2いくぶん皮肉なことに、わたしはツェッテルカステンをあえて「クソゲーだなぁ」と断定してみることで、このメモ術との和解への一歩を踏み出したといっていい……のだと思います。たぶん、きっとね。\n2. 枚数制限なし、多色デッキ、おまけにデザイナーはわたし ツェッテルカステンにおいてメモはカードとも呼ばれます。なのでここはゲームはゲームでも、ツェッテルカステンをカードを使ったゲームとしてとらえてみましょう。リンクはコンボやシナジーと考えるとおもしろいかもしれません。\nでは、ここに1枚のカードがあるとしましょう。カードにはさいきん読んだ本で展開されていた主張の一部を抽象化して簡潔にまとめ直してあります。コピペではなくもちろん自分の言葉で、です。\nたとえば生物学の本から『生き残るためには進化（変化）し続けなければならない』という赤の女王仮説のエッセンスだけを抽出して、1枚の独立したノートにするようなイメージです。3\nわたしはそのメモにたいしてすぐに具体的な反論――それもちょっと文章量が多くなりそうな――が思いつくかもしれません。「変化のコストが高すぎる環境では、あえて停滞することが最適解になるケースもあるのではないかうんぬん」といったように。その場合、また1枚カードが増えることになります。ツェッテルカステンは1枚1トピックが基本なので。\n1ヶ月後、別の書物の中に自分の反論を裏付けるような具体例を見つけました。その場合でもカードは1枚増えます。\nこれはつまりこういうことです。仮にわたしがアナロジーによるリンクを1つも思いつかなかったとしても、1つのメモが他の複数のメモを自然と産んでしまう。ツェッテルカステンは自己参照的なのですね。\nカードを使ったゲームとして考えるとこれはちょっと困った事態です。なにせ手札がどんどん増えていくのですから。基本的にツェッテルカステンではデッキの圧縮といった手段は取れません。手札の増加はシステムが要求するものであり、避けられない事態なのです。まともなゲームデザイナーであればすぐさま調整をいれるべき部分でしょう。ゲームバランスどころかシステム設計に問題がある。\nそして、そう。アナロジーによるリンク。\nあるメモとまったく別の分野のメモのあいだに類似の構造をみつけてつながりを作ること。その飛躍によって硬直化した思考を乗り越えよう。それがツェッテルカステンの目的でした。\n問題を解決するにあたって多角的な視点を養う。自分が普段している頭の使い方からは出てこないような、意外な創発を期待する。それらの目的のためには。さまざまな分野のカードが必要になります。つまり、手札が自然と多色化してしまう。\nこれもまたゲームとして考えると厄介なポイントです。TCGでは属性を1つか2つに絞ってデッキを組むのが常道でしょう。枚数制限がないうえに多色のデッキなんて悪夢でしかないのですから。コンボ (リンク) を繋げるのに一苦労をともなうのはごく自然なことです。\nでは『Slay the Spire』のようなゲームならどうでしょうか。ローグライク型デッキ構築では、ゲームの流れに沿って「今回はこっちの方向でビルドしてみよう」と臨機応変に方針を決めていきます。ものすごくざっくりいうと運に左右されるわけですね。\nこうして考えてみると、TCGよりはこっちのほうがツェッテルカステンに近いように感じます。ツェッテルカステンもまた偶然性、セレンディピティに重きを置いているのですから。\nランダム報酬そのものにみえるものだって、ツェッテルカステンには存在します。いや、「するらしい」というのが正確か。かつての自分が導いてくれたかのような、「創発」としか表現しようのないつながりがそれにあたるのでしょう。4問題解決というボス（目標）も存在しているわけだし、あれ、もしかしてツェッテルカステンって『Slay the Spire』なの？\n『Slay the Spire』をアナロジーの柱として考えるツェッテルカステンというテーマは、たしかに掘り甲斐がありそうではあります。しかし、いわずもがな『Slay the Spire』はクソゲーではありませんし、ツェッテルカステンでもありません。\n今回のエントリでわたしが「ツェッテルカステンってもしかしてクソゲーなのでは？」というときのクソゲーとはどういうものか。それは「際限なく増え続けるカード」、「すべてが自分しだい」という2点においてです。\n1つめについてはすでに説明しました。では2つめ、「すべてが自分しだい」はどういうことか。\nこのコンボは有効なのか。シナジーはうまく機能しているのか。それで得られるリターンはどんなものでスコアはいくらなのか。こうした事柄を自分ひとりで判断する必要が出てくる。\n以前はすばらしいコンボだと思えていたメモ間のつながりが、いつのまにか陳腐で価値のないものに思えてしまう。いつ、だれが、こんなクソみたいな調整を？　知らないうちに、たぶんわたしが。\nたとえば、先に挙げた「赤の女王仮説」ってすごく便利なんですよね。つなげようと思えば他のいろんなカードにつなげられそうな気がしてくる。でも、それではダメなんです。毒にも薬にもならない一般論でリンクをつないでも意味がない。「赤の女王仮説」はコンボの起点になる強いカードに見えて、実は扱いがとても難しい。その取扱いの難しさを、ユーザーは見極める必要がある。\nそもそもカードの追加すら自分でやらなくてはいけないのです。自己参照的がどうだといっても実際に手を動かすのは他ならぬわたしでしかない。なんでもかんでもカード化していたらあっというまにシステムがダウンしてしまう。\nデザイナーもプレイヤーも、そしてほとんどの場合――パーマネントノートとして成長し、ブログやミーティング、プレゼンなどの公の場に発表されないかぎりにおいては、観客すらも1人で兼ねているのがツェッテルカステンなのだといえます。1人3役。手に負えないね、こんなのは。\nだからこそ「メモ同士をつなげて、自分の主張が展開できるほどにまで育ったら、ぜひ公の場に公開すべきだ」という先人たちのアドバイスが存在するのでしょう。孤独は耐えがたいものだから。メモたちはつながっているのに、メモを書いている当人がOrphan5なのはよくないから。\nこんな、著しくバランスの悪いゲームが存在するでしょうか？　しません。なぜならツェッテルカステンはノート術であってカードを使ったゲームではないのですから。これはあくまで思考の実験、エクササイズです。\nしかし、「ツェッテルカステンがゲームだったとしたら？」と考えてみることには意味があります。大いに、と思い切っていってみましょう。\nそれは、「失敗や不完全さを許容しやすくなること」。これに尽きるとわたしは考えます。\n3. とても下手でも、なお楽しんでいる感覚 ゲームは失敗を前提にしたメディアです。本当ならツェッテルカステンだってきっとそうなのです。そこでは失敗はごくごくありふれています。できればしたくなくて、悔しく思うときもあれば怖く感じるときだってある。成功を生む失敗もあるだろうけれど、失敗でしかない失敗もあるでしょう。どこにもつながらない、学びのない失敗。それでも、システムそのものに失敗が前提とされているのであれば、少し気持ちがラクになる。\nいや、きっと「失敗を恐れるな」とアドバイスしてくれた先人たちは最初からそのような意味も含めていってくれていたのかもしれません。それがわかっていなかったんだな。\nここでちょっと寄り道をしてみたいです。Real Soundテックというサイトで2026年05月から7回にわたって『ベネット・フォディを中心に見るインディーゲーム小史』と題された評伝が掲載されました。『Getting Over It with Bennett Foddy』、通称・壺おじの作者に関する連載です。\n“壺おじ”を生んだ「ベネット・フォディ」とは何者か個人開発インディーゲームの歴史を変えた重要人物の足跡を辿る リアルサウンドテックではSF作家にして批評家、そしてインディーゲームの熱心なプレイヤーでもある千葉集による「ベネット・フォディを中心に見るインディーゲーム小史」を、全七回にわたってお届けする。大流行するインディーゲームの現在の起源と、重要な役割を果たしたフォディの足跡を知る手がかりとなれば幸いだ。 この連載、1人の人間の半生記として、また1つのコミュニティ史としてもすこぶる面白いのでぜひ通して読んでみてほしいのですが、とりあえず今はその 第6回 、まさに『Getting Over It with Bennett Foddy』についてフィーチャーした回から、孫引きになってしまいますがベネット・フォディの発言を一部引用します。\n「ゲーム、いや芸術一般ができることで、わたしにとって大切なのは、人々が『絶対に自分は好きじゃない』と確信しているものに対し、ある種の体験を与えることで『いや、もしかしたら好きなのかもしれない。こういう見方をすれば好きになれるかもしれない』という議論を提示できることです。\nだから、これは“負ける”という感覚でそれをやってみせようとしている。『うまくなる』ことが本質なのではありません。『うまくなろうとして失敗し続けること』がどういうものか、についてなんです」\nこれでいい。これでじゅうぶんです。わたしがこのエントリで伝えようとして試行錯誤してきたことの大半を代弁してくれている。\n正直、わたしはツェッテルカステンに反感と猜疑の目を向けていました。それでもなんとか理解したい、と思ってしまった。なぜこのメモ術に多くの人が惹かれてきたのか気になってしまった。そのせいでこのメモ術をカードを使ったゲームにたとえてあれやこれやと書いてきたのです。できるかどうかは別として、フォディがいうところの「とても下手でも、なお楽しんでいる感覚」、それをツェッテルカステンを通して味わえたのならさらに良いのでしょう。6\nもちろんツェッテルカステンはシステムではあるかもしれないけれど、それじたいがゲームやアートではありません。その事実は忘れてはいけない。だからわたしがここでいまベネット・フォディに関する連載を引用することはまさしく、そしてまたしても、連想や類推のたぐいなのでしょう。\nなんにせよ、ここまで考えてきてわたしは妙に晴れやかな気持ちになりました。バランスの悪いゲームに挑んでいるのだと思えば、比較的明るく失敗できます。だってそれならもう失敗しても仕方ないじゃん。ひーこらいいながら、その都度の納得を自分なりに探していくほかない。\nというかもっとシンプルに、「クソゲーにハマってる変わった人」だと自認していれば気持ちがラクなんですよね。「自己と深く対話している人」というペルソナ、わたしには高級すぎて……。\nそれに。\n仮にそれがクソゲーだろうとプレイヤーはこだわりや矜持、愛着を持つものではないでしょうか。\nツェッテルカステンとはなにか。\n別にカードゲームに当てはめて考えなくていいです。釣りだろうが山登りだろうが、おのおのが好きなように共通点や類似構造を取り出して考えてみる。でも庭いじりは……ちょっとありふれすぎてるかもしれません。本当に庭いじりが好きだったらいいですけど。\nツェッテルカステンを運用する（あるいはノートを取る）ということは「問い」と「とりあえずの決断」の繰り返しです。それはもう、痛切に感じています。自分がどういう人間で、どうしたいと思っているのか。その問いを何度も何度も突きつけられる営みです。\nその問いをメモ術そのものにも向けてみる。道具を使う人間はその道具について批判的に考えるのが大切だと思います。すべてをいわれるがまま受け入れるのではなく。\n私はみんなもっとツェッテルカステンのネガティブ（に思える）面についても積極的かつ率直に話をすべきではないかなと思います。\nいや、メモ術にかぎらずですね。「文句や悪口をいえ」っていうんじゃないですよ。批判的に考えることから始まるポジティブさもあるんじゃないかなと。わたしはそう信じています。\nwww.youtube.com Hiroko YamamuraのDJみたいにメモを繋げられたら最高だと思うんだよな……\nツェッテルカステン：AI時代に本当に学ぶ方法: 読んだことを持続的な理解に変えるシステム Actually Learn - JP Zettelkasten: AI Jidai ni Hontou ni Manabu Houhou: Yonda Koto wo Jizokuteki na Rikai ni Kaeru System Actually Learn - JP (Japanese Edition) by Gabriel Anhaia これは比較的いい本でした。おそらくAIでカバー画像をつくったせいで誤字っていますが、中身は翻訳も含めてかなりまとも。\n『 Atomic Habits 』か『 TAKE NOTES! 』でいいじゃんといわれればそうなのですが、アンリミでも読めるので。\n書肆山田, 1999年11月, 12ページ\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nとはいえ、実はこの記事の執筆にはツェッテルカステンをろくに使っていないのですが。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nツェッテルカステンといっても作法は人によってさまざまなのですが、そこに出典や自分の感想や意見なんかもいっしょに付け加えられている場合もあります。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nもっと直接的に、使うメモアプリに備わったランダム表示機能を使って過去のノートを振り返る派閥もあります。ただ、その際も「自分がどうしてこの２つのノートをリンクさせたいのか？」をしっかり言語化しなくてはいけないようです。ツェッテルカステンは自分の意志というものを重んじているようなんですよね。なので今回の記事ではAIについても触れていません。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n原義では「孤児」という意味ですが、ノートテイキング界隈においては孤立していてどこともリンクされていないメモを指す。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nここでも念のために補足しておくと、わたしは『Getting Over It〜』を高難易度ゲームだとは思っていますが、クソゲーだとは思っていません。先ほど書いた通り、この記事でのクソゲーとはあくまで「カードが増え続け、すべてが自分しだい」というシステムの要求過大さを指しています。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","permalink":"https://tano-shiina.com/2026/09/26/t6p1w5zk/","summary":"\u003cp\u003e\u003cimg loading=\"lazy\" src=\"/images/posts//t6p1w5zk/ogp.png\"\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cblockquote\u003e\n\u003cp\u003e「昔からのすべて。他には何も。ずっとためされ。ずっと失敗され。構わない。またためす。また失敗する。もっと良く失敗する」\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e（サミュエル・ベケット著　長島確訳『いざ最悪の方へ』\u003csup id=\"fnref:1\"\u003e\u003ca href=\"#fn:1\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e1\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e）\u003c/p\u003e\n\u003c/blockquote\u003e\n\u003ch2 id=\"1失敗を恐れるなだなんて悪い冗談\"\u003e1.「失敗を恐れるな」だなんて悪い冗談\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003e教科書的な話題から入りましょう。なぜなら必要なので。すぐ終わります。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eツェッテルカステンはドイツの社会学者であるニクラス・ルーマンによって編み出されたメモ術です。\u003cbr\u003e\n学者、しかも社会学の。ツェッテルカステンについて考えるうえで、この点は見過ごせません。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eたとえば、読んだ本の主張を自分なりの言葉でパラフレーズする。その主張を実証する例、もしくは反証する例を集める。自分の見解を付け加える。元の本の出典を明記する。アナロジーによってリンクを張る。\u003cbr\u003e\nこれらはすべて論文を書くために最適化された方法です。とくにルーマンの専門である社会システム理論を展開するにはツェッテルカステンがひじょうに有用であることは想像に難くありません。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eそのツェッテルカステンはルーマン以外の人たちにも便利なものでした。きっと今でもそうなのでしょう。ですから、そこから発展して自己啓発書や情報商材のひとつとしても扱われるようになっていったことに、なんの不思議もありません。\u003cbr\u003e\nツェッテルカステンは以下のような売り文句とともに語られることが多いです。いわく、「問題を解決するための画期的なメモツール」「自分と深く対話するために必要な真に実践的な方法」などといったような。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eしかしそうなってしまうと語られるのが長所メインになってしまうんですね。あとはとうぜん具体的なメソッドの数々。精神的なフォローは「とにかく習慣化するまで手を動かせ」「メモがたくさん増えると創発が起こるから信じてやれ」が多いです。要するに「失敗を恐れるな、結果は後からついてくる」。これです。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e上記のようなアドバイスで励まされる人はそれでいいと思います（皮肉ではなく）。\u003cbr\u003e\n残念ながらわたしは違いました。いくらいわれても不安でしたし、ツェッテルカステンの効果について疑いの目を向けていました。正直にいえばまだ完全には信じていません。\u003cbr\u003e\nつまり、そう、時間と労力をかけて「失敗」したくなかったのです。そもそも、失敗が怖くないのであれば先人に教えを請うたりはしないのですから。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e「失敗を恐れるな」といわれると、失敗がよけいに悪いものに思えてくる。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eたとえばわたしにとっていちばんの難関は「アナロジーでリンクをつなぐ」ということでした。アナロジー（類推）は連想でもなければ単純な共通点でもありません。構造が似ている必要があるのです。ニュアンスとしては点ではなく線や面のレベルで似ている、という感じでしょうか。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e適切なアナロジーというのはほんとうに難しいです。自分を律しなければ凡庸で使い物にならないリンクができあがってしまう。雑語りや謎かけと見分けがつかなくなってしまう。SNSでも見かけませんか、急に関係ないこと繋げて自身の怒りにバフをかけている人。あれになっちゃいそうで不安。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eかといって厳密に見極めようとすると飛躍が足りなくなります。アナロジーの意味がないんですね。さらにもっと悪化すればリンクを張ることすらできなくなってしまう（だってちょっと考えれば両者が別物だなんてたいていの場合は自明ですから）。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e人間である以上、うまくアナロジーで繋げなかったリンクが発生してしまったり、隙の多い主張を高く評価してしまったりすることは避けられません。模範的なツェッテルカステンユーザーは、そうした人為的な誤りこそが思考の摩擦を生み、メモの群れが作り出すカオスに奉仕し、創発を促すのだというのかもしれません。だからこそ、「とにかく書かなければいけない」と。\u003cbr\u003e\nきっとそうに違いない。そうなのかもしれない。本当にそうかな？　失敗はやっぱり失敗なんじゃないだろうか。そこを認めてしまわないかぎり、私には自己との対話も、創発も、カオスも、なんだか遠いものに感じられる。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eもしかしたら最初は摩擦も創発やカオスといったワードも、失敗や不安をどうにかポジティブなものへと変換しようという先人たちの試みだったのかもしれません。ある種のパラフレーズですね。\u003cbr\u003e\nしかし、わたしのようなひねくれた人間には、その前向きさが逆に重たい。手が止まる原因になってしまう。\u003cbr\u003e\nであれば、やらなくてはいけません。わたしなりにツェッテルカステンの思想をパラフレーズし直してみることを。そのステップを経て初めて、自分にとってメモを取ることにどういう意義があるのかをつかめる気がする。\u003cbr\u003e\nその用途に最適だったのがわたしの場合は「ゲーム」という概念でした。それも「クソゲー」と呼ばれる類の。\u003cbr\u003e\n元からバランスを欠いたゲームなのだからうまくできなくても仕方ない。そんな諦めにも似た納得。わたしに必要だったのはそれです。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eパラフレーズ。抽象化。そして類推。話を少し先取りするならば、以下でわたしが書くことは、発想法としてはいかにもツェッテルカステン的な営みの実例です。\u003csup 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(リンク) を繋げるのに一苦労をともなうのはごく自然なことです。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eでは『Slay the Spire』のようなゲームならどうでしょうか。ローグライク型デッキ構築では、ゲームの流れに沿って「今回はこっちの方向でビルドしてみよう」と臨機応変に方針を決めていきます。ものすごくざっくりいうと運に左右されるわけですね。\u003cbr\u003e\nこうして考えてみると、TCGよりはこっちのほうがツェッテルカステンに近いように感じます。ツェッテルカステンもまた偶然性、セレンディピティに重きを置いているのですから。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eランダム報酬そのものにみえるものだって、ツェッテルカステンには存在します。いや、「するらしい」というのが正確か。かつての自分が導いてくれたかのような、「創発」としか表現しようのないつながりがそれにあたるのでしょう。\u003csup id=\"fnref:4\"\u003e\u003ca href=\"#fn:4\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e4\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e問題解決というボス（目標）も存在しているわけだし、あれ、もしかしてツェッテルカステンって『Slay the Spire』なの？\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e『Slay the Spire』をアナロジーの柱として考えるツェッテルカステンというテーマは、たしかに掘り甲斐がありそうではあります。しかし、いわずもがな『Slay the Spire』はクソゲーではありませんし、ツェッテルカステンでもありません。\u003cbr\u003e\n今回のエントリでわたしが「ツェッテルカステンってもしかしてクソゲーなのでは？」というときのクソゲーとはどういうものか。それは「際限なく増え続けるカード」、「すべてが自分しだい」という2点においてです。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e1つめについてはすでに説明しました。では2つめ、「すべてが自分しだい」はどういうことか。\u003cbr\u003e\nこのコンボは有効なのか。シナジーはうまく機能しているのか。それで得られるリターンはどんなものでスコアはいくらなのか。こうした事柄を自分ひとりで判断する必要が出てくる。\u003cbr\u003e\n以前はすばらしいコンボだと思えていたメモ間のつながりが、いつのまにか陳腐で価値のないものに思えてしまう。いつ、だれが、こんなクソみたいな調整を？　知らないうちに、たぶんわたしが。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eたとえば、先に挙げた「赤の女王仮説」ってすごく便利なんですよね。つなげようと思えば他のいろんなカードにつなげられそうな気がしてくる。でも、それではダメなんです。毒にも薬にもならない一般論でリンクをつないでも意味がない。「赤の女王仮説」はコンボの起点になる強いカードに見えて、実は扱いがとても難しい。その取扱いの難しさを、ユーザーは見極める必要がある。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eそもそもカードの追加すら自分でやらなくてはいけないのです。自己参照的がどうだといっても実際に手を動かすのは他ならぬわたしでしかない。なんでもかんでもカード化していたらあっというまにシステムがダウンしてしまう。\u003cbr\u003e\nデザイナーもプレイヤーも、そしてほとんどの場合――パーマネントノートとして成長し、ブログやミーティング、プレゼンなどの公の場に発表されないかぎりにおいては、観客すらも1人で兼ねているのがツェッテルカステンなのだといえます。1人3役。手に負えないね、こんなのは。\u003cbr\u003e\nだからこそ「メモ同士をつなげて、自分の主張が展開できるほどにまで育ったら、ぜひ公の場に公開すべきだ」という先人たちのアドバイスが存在するのでしょう。孤独は耐えがたいものだから。メモたちはつながっているのに、メモを書いている当人がOrphan\u003csup id=\"fnref:5\"\u003e\u003ca href=\"#fn:5\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e5\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003eなのはよくないから。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eこんな、著しくバランスの悪いゲームが存在するでしょうか？　しません。なぜならツェッテルカステンはノート術であってカードを使ったゲームではないのですから。これはあくまで思考の実験、エクササイズです。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003eしかし、「ツェッテルカステンがゲームだったとしたら？」と考えてみることには意味があります。大いに、と思い切っていってみましょう。\u003cbr\u003e\nそれは、「失敗や不完全さを許容しやすくなること」。これに尽きるとわたしは考えます。\u003c/p\u003e\n\u003ch2 id=\"3-とても下手でもなお楽しんでいる感覚\"\u003e3. とても下手でも、なお楽しんでいる感覚\u003c/h2\u003e\n\u003cp\u003eゲームは失敗を前提にしたメディアです。本当ならツェッテルカステンだってきっとそうなのです。そこでは失敗はごくごくありふれています。できればしたくなくて、悔しく思うときもあれば怖く感じるときだってある。成功を生む失敗もあるだろうけれど、失敗でしかない失敗もあるでしょう。どこにもつながらない、学びのない失敗。それでも、システムそのものに失敗が前提とされているのであれば、少し気持ちがラクになる。\u003c/p\u003e","title":"「それは失敗じゃない」なんていわないで：歪なカードゲームとしてのツェッテルカステン"},{"content":"👻管理者 P.N： 吉備 (きび) 椎菜 (しいな) お問い合わせページは こちら ☃️カテゴリー案内 Book ：本を読むと、なにかしら感じたり思ったりをする Video ：映像作品ぜんぱん🍞 Game ：画面酔いしやすい PKM ：自分で決めたはずのサイトの設定やメモの方針を忘れがち Essay ：つまるところ雑文のたぐい 📎リンク Fedibird ：おもにここにいる RSS ：このサイトの更新が受け取れる 権利表記 以下の箇所でそれぞれフリーアイコンを使用しています。\nfavicon ICOON MONO: ゴーストアイコン1 OGP画像 Font Awesome: ghost 1 シェアボタン Streamline: Flex Color Icons (copy-2-flat) 1 Streamline: Streamline Color (check-flat) 1 License: CC BY 4.0 \u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","permalink":"https://tano-shiina.com/about/","summary":"\u003ch2 id=\"管理者\"\u003e👻管理者\u003c/h2\u003e\n\u003cul\u003e\n\u003cli\u003eP.N：\u003cruby\u003e 吉備 \u003crp\u003e(\u003c/rp\u003e\u003crt\u003eきび\u003c/rt\u003e\u003crp\u003e)\u003c/rp\u003e \u003c/ruby\u003e\u003cruby\u003e 椎菜 \u003crp\u003e(\u003c/rp\u003e\u003crt\u003eしいな\u003c/rt\u003e\u003crp\u003e)\u003c/rp\u003e \u003c/ruby\u003e\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003eお問い合わせページは\u003ca\n  href=\"https://tano-shiina.com/contact/\"\n\u003e\n  こちら\n\u003c/a\u003e\u003c/li\u003e\n\u003c/ul\u003e\n\u003ch2 id=\"カテゴリー案内\"\u003e☃️カテゴリー案内\u003c/h2\u003e\n\u003cul\u003e\n\u003cli\u003e\u003ca\n  href=\"https://tano-shiina.com/categories/book/\"\n\u003e\n  Book\n\u003c/a\u003e：本を読むと、なにかしら感じたり思ったりをする\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003e\u003ca\n  href=\"https://tano-shiina.com/categories/video/\"\n\u003e\n  Video\n\u003c/a\u003e：映像作品ぜんぱん🍞\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003e\u003ca\n  href=\"https://tano-shiina.com/categories/game/\"\n\u003e\n  Game\n\u003c/a\u003e：画面酔いしやすい\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003e\u003ca\n  href=\"https://tano-shiina.com/categories/pkm/\"\n\u003e\n  PKM\n\u003c/a\u003e：自分で決めたはずのサイトの設定やメモの方針を忘れがち\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003e\u003ca\n  href=\"https://tano-shiina.com/categories/essay/\"\n\u003e\n  Essay\n\u003c/a\u003e：つまるところ雑文のたぐい\u003c/li\u003e\n\u003c/ul\u003e\n\u003ch2 id=\"リンク\"\u003e📎リンク\u003c/h2\u003e\n\u003cul\u003e\n\u003cli\u003e\u003ca\n  href=\"https://fedibird.com/@simulfix\"\n    target=\"_blank\"\n    rel=\"noopener noreferrer\"\n\u003e\n  Fedibird\n\u003c/a\u003e：おもにここにいる\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003e\u003ca\n  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id=\"シェアボタン\"\u003eシェアボタン\u003c/h4\u003e\n\u003cul\u003e\n\u003cli\u003e\u003ca\n  href=\"https://allsvgicons.com/pack/streamline-flex-color/#copy-2-flat\"\n    target=\"_blank\"\n    rel=\"noopener noreferrer\"\n\u003e\n  Streamline: Flex Color Icons (\u003ccode\u003ecopy-2-flat\u003c/code\u003e)\n\u003c/a\u003e \u003csup id=\"fnref1:1\"\u003e\u003ca href=\"#fn:1\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e1\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/li\u003e\n\u003cli\u003e\u003ca\n  href=\"https://allsvgicons.com/pack/streamline-color/#check-flat\"\n    target=\"_blank\"\n    rel=\"noopener noreferrer\"\n\u003e\n  Streamline: Streamline Color (\u003ccode\u003echeck-flat\u003c/code\u003e)\n\u003c/a\u003e \u003csup id=\"fnref2:1\"\u003e\u003ca href=\"#fn:1\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e1\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/li\u003e\n\u003c/ul\u003e\n\u003cdiv class=\"footnotes\" role=\"doc-endnotes\"\u003e\n\u003chr\u003e\n\u003col\u003e\n\u003cli 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米澤穂信による同名の短編集に収められた「倫敦スコーンの謎」は、小佐内ゆきが調理実習で遭遇した少し奇妙なできごと――沢海という女子生徒が、しっかり手順や分量を守ってつくったはずのスコーンがなぜか生焼けになってしまった事件――をめぐるミステリです。\n小佐内は小鳩常悟朗に助力を仰いだ理由について「たんに失敗の原因を知りたいからではない」と説明します。実際的な理由があるのだ、と。\n「スコーンは沢海さんが作って、そのスコーンは失敗だったんだから、ふつうに書けば沢海さんが失敗したっていうレポートになる。だけどわたしは、沢海さんの手順にミスがなかったことを知ってる。そして本当の問題は、沢海さんのせいで失敗したっていうレポートを書いて、そのレポートがクラスで公開されたら……新しいクラスでの人間関係がちょっと困ったことになるかも、ってこと。沢海さんはプライドが高そうだからね」1\nこのいかにも小市民的な説明にたいして小鳩は納得します。本作を含むシリーズ読者だってきっとそうではないでしょうか。そこには小市民と狼の匂いが漂っている。争いはできるだけ避けたい。必要以上の狩りはしたくないから、とでもいうような。\nそして、いざ納得のいく謎解きがなされたあと、小鳩に「いったいどんなふうにレポートを書くのか」と問われた小佐内は次のように返答します。\n「たとえば\u0026hellip;\u0026hellip;自分の担当であるカナッペのことだけ考えていたのが悪かったです。班の仲間なんだから、もっと助け合うべきでした」2\nこれは、正直いって奇妙ではないでしょうか？　少なくともわたしには奇妙です。スコーンが生焼けだったのと同じくらいには。だってこの程度であれば、小佐内は小鳩の力など必要としない。現に小佐内はこの理屈をひとりで考えだしています。もしかして彼女は、小鳩にたいして嘘をついているのでしょうか？\n嘘と真実。建前と本音。見かけと中身。こうしたテーマはミステリでは王道といっていいでしょう。なにせ、この『倫敦スコーンの謎』という短編集じたいがそうしたテーマに貫かれているのですから。「桑港クッキーの謎」における盗作か否かという問題も、フォーチューンクッキーというモチーフも、それから見た目はしっかり焼けているのに生焼けのスコーンも、スコーンの本場はいったいどこなのかという話題も、それからそれから……。\nそしていわずもがな、2人はこの先の未来に『夏期限定トロピカルパフェ事件』を控えています。あの夏の事件を見据えて『倫敦スコーンの謎』が執筆されたことは明らかです。\nそれにしても。仮に小鳩へかけた言葉に嘘が含まれていたのだとしたら、なぜ小佐内は正直にいわなかったのでしょう。その理由が、まだいまいち判然としません。\n彼女の持つ狡猾さ、慎重さゆえ？　まあ、たしかに。うん。それも大いにありうるかもしれない。そう思わせるだけの心当たりを、読者はあまりにも多く持ちすぎている。\n湧き出す恐怖と猜疑のこころをおさえつつ、この女子高生についてもう少し寄り添って考えてみましょう。小佐内は「倫敦スコーンの謎」のなかで、次のようにも語っていたのでした。\n「沢海さんの手順にミスがないのなら、失敗したのは沢海さんだとは書けないって思ってた。万が一レポートが公開された時の、クラスの人間関係を考えるとね」3\n沢海さんの手順にミスがないのなら。おそらくですが、小佐内にとってなにより大事なのはこの仮定の部分です。4\nたとえば真相が、「沢海に恨みを持っていた人間がスコーンを入れ換え」だったと仮定しましょう。5。その事実じたいにたぶん小佐内は興味がない。犯人がだれかも二の次なのかもしれません（真相によっては復讐に打って出る可能性もありますけれど……）。\n失敗した原因そのものはわからなくてもいい。だけど、「手順に間違いがなかったかどうか」だけははっきりと知りたかった。だからこそ、わざわざロンドン風のスコーンを提供し、それを目の前で調理してくれる店まで赴いたのでしょう。\nでは、なぜ「手順」がそこまで大事だったのか。本作の中で小鳩が次のように語っていたことを思い出しましょう。\nぼくはお菓子に詳しくないけれど、小佐内さんと行動する中で、いくつか学んだことがある。その中の一つが、お菓子作りとは科学であり、再現性があるのだという原則だ。間違った手順で作れば、失敗する。手順が間違っているのに、たまたま成功したりはしない。失敗の結果が想定外のおいしさや食感を生み出すこともあるらしいけれど、それだって、当初のレシピからすると失敗の範疇にあることは変わらない。6\nおそらく小佐内にとってのお菓子とは、食べると美味しくて幸せな気分に浸らせてくれるものであると同時に、ひとつの精神的な寄る辺なのではないか。分量と手順を正しく守りさえすれば、必ず正解にたどりつけるもの。\nそしてこれはあきらかに『秩序』についての話です。ミステリにおいて探偵が回復することを期待されている類のものにも似た。\n「秩序」を守るためにこそ、探偵の力、小鳩の力が必要だった。7「倫敦スコーンの謎」を、わたしはそうした小説だと受け取りました。\nそれで……けっきょく、「倫敦スコーンの謎」において小佐内は小鳩に嘘をついたのでしょうか。\nたぶん、部分的に。もしかしたら、小佐内じしんも嘘をついたとまでは考えていなかったかもしれません。彼女の視点から物語が語られない以上、確定的なことはいえないままです。\n「ありがとう、小鳩くん。これで残るのは、最初の問題だけ」\n最初の問題というと……なんだっけ。ぴんとこないでいると、小佐内さんはちょっと困ったように微笑む。8\nなぜ、小佐内は困ったように笑ったのでしょう。小鳩がいつものように謎解きそのものに熱中して、「レポートにどう書くか」という相談内容を忘れてしまっていたからに違いありません。9\nここまで考えたとき、わたしはふたたび『夏期限定トロピカルパフェ事件』に思いを馳せざるを得なくなります。ああ、「倫敦スコーンの謎」の小鳩と小佐内の延長に、『夏期限定トロピカルパフェ事件』の2人がいるんだなぁということがはっきりと、そしてしみじみとわかってくる。\nこれはどう控えめに表現しても、タチの悪い嘘だ。……嘘つきだ。10\nこんなにも嘘ばっかりなんだもの。……わたしたちが「狐』であり「狼』だっていうのも、きっと嘘なんだわ。11\n正直にいえば、わたしはもともと『夏期限定トロピカルパフェ事件』について、そこまで評価していませんでした。「ここまで人間はたやすく動かされるだろうか？」「2人の感情の吐露にうまくついていけない」。その疑念をどうしても拭いきれなかった。\n短編集『倫敦スコーンの謎』はそうした不満にたいする、作者からの1つの回答でしょう。あの夏の事件へと至る2人の道行きを、あくまで短編ミステリの形式は保ちながら描いてみせた。\n想像以上に難しかったはずです。「後出しの帳尻合わせでどうとでもなるだろう」だなんて読者を舐めた様子は感じさせない。そうした姿勢に、私は米澤穂信の作家としての矜持を見ました。\n倫敦スコーンの謎 (創元推理文庫) 絶品ジェラートが目の前にあるのに、あの人はなぜ手をつけない？ 日常に紛れた奇妙な謎に、納得のゆく答えは見つかるか？ 高校二年の夏までに、小鳩君と小佐内さんが遭遇した四つの謎 シリーズ第二作品集。 料理の意味とその手立て ウー・ウェンさんのレシピで料理を作ったことがありますか? レシピに必要な材料や調味料は驚くほど少なくて、手順もかんたん、時間もさほどかかりません。なのに、食べると細胞が芯から喜ぶような。 からだに優しく染みるスープ、素材の味が力強い炒めもの、みずみずしい蒸し料理。小麦粉料理はすこし手間がかかりますが、覚えたら、一生の友となってくれることで... 米澤穂信著『倫敦スコーンの謎』, 東京創元社, 2026年4月, 160ページ\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n米澤穂信著『倫敦スコーンの謎』, 東京創元社, 2026年4月, 205ページ\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n米澤穂信著『倫敦スコーンの謎』, 東京創元社, 2026年4月, 204ページ\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nその続きである「失敗したのは沢海さんだとは書けないって思ってた」も、厳密に読もうとするならなんだか不思議な文章です。これだともし手順に看過できないほどのミスがあったのなら、沢海の責任だとレポートに書いた可能性もあるみたいに読めます。本文中で見たように実際はそうしなかったどころか、そんな気持ちすらなかったようですが……本当か？\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n入れ換えがあったかどうかについてはp.174で否定されています。じゅうぶんに議論を尽くしたかというと若干疑問は残ります……が、このエントリ中にあるとおり、おそらくその点を小佐内は最初から問題にしていない、というのがわたしの読解です。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n米澤穂信著『倫敦スコーンの謎』, 東京創元社, 2026年4月, 155ページ\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nそれとも小鳩はたんなるダブルチェック要員だっただろうか？　いや、とうぜん小佐内は小鳩が謎解きに夢中になるだろうとほとんど確信と半ば諦めの気持ちを抱いていたに違いない。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n米澤穂信著『倫敦スコーンの謎』, 東京創元社, 2026年4月, 204ページ\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nしかもそれが嘘の言い訳だったからから……とまで考えるとおそらく妄想の領域に足を踏み入れてしまいます。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n米澤穂信著『夏期限定トロピカルパフェ事件』, 東京創元社, 2006年4月, 224ページ\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n米澤穂信著『夏期限定トロピカルパフェ事件』, 東京創元社, 2006年4月, 226ページ\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","permalink":"https://tano-shiina.com/2026/07/21/k7m2x9ab/","summary":"\u003cfigure\u003e\n  \u003ca href=\"https://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488451134\"\u003e\n    \u003cimg src=\"/images/posts/k7m2x9ab/ogp.jpg\" alt=\"米澤穂信『倫敦スコーンの謎』表紙画像\"\u003e\n  \u003c/a\u003e\n    \u003cfigcaption\u003e出版社：東京創元社, 装画：片山若子, 装幀：岩郷重力＋WONDER WORKZ。\u003c/figcaption\u003e\n\u003c/figure\u003e\n\u003cp\u003e　米澤穂信による同名の短編集に収められた「倫敦スコーンの謎」は、小佐内ゆきが調理実習で遭遇した少し奇妙なできごと――沢海という女子生徒が、しっかり手順や分量を守ってつくったはずのスコーンがなぜか生焼けになってしまった事件――をめぐるミステリです。\u003cbr\u003e\n　小佐内は小鳩常悟朗に助力を仰いだ理由について「たんに失敗の原因を知りたいからではない」と説明します。実際的な理由があるのだ、と。\u003c/p\u003e\n\u003cblockquote\u003e\n\u003cp\u003e「スコーンは沢海さんが作って、そのスコーンは失敗だったんだから、ふつうに書けば沢海さんが失敗したっていうレポートになる。だけどわたしは、沢海さんの手順にミスがなかったことを知ってる。そして本当の問題は、沢海さんのせいで失敗したっていうレポートを書いて、そのレポートがクラスで公開されたら……新しいクラスでの人間関係がちょっと困ったことになるかも、ってこと。沢海さんはプライドが高そうだからね」\u003csup id=\"fnref:1\"\u003e\u003ca href=\"#fn:1\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e1\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/blockquote\u003e\n\u003cp\u003e　このいかにも小市民的な説明にたいして小鳩は納得します。本作を含むシリーズ読者だってきっとそうではないでしょうか。そこには小市民と狼の匂いが漂っている。争いはできるだけ避けたい。必要以上の狩りはしたくないから、とでもいうような。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　そして、いざ納得のいく謎解きがなされたあと、小鳩に「いったいどんなふうにレポートを書くのか」と問われた小佐内は次のように返答します。\u003c/p\u003e\n\u003cblockquote\u003e\n\u003cp\u003e「たとえば\u0026hellip;\u0026hellip;自分の担当であるカナッペのことだけ考えていたのが悪かったです。班の仲間なんだから、もっと助け合うべきでした」\u003csup id=\"fnref:2\"\u003e\u003ca href=\"#fn:2\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e2\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/blockquote\u003e\n\u003cp\u003e　これは、正直いって奇妙ではないでしょうか？　少なくともわたしには奇妙です。スコーンが生焼けだったのと同じくらいには。だってこの程度であれば、小佐内は小鳩の力など必要としない。現に小佐内はこの理屈をひとりで考えだしています。もしかして彼女は、小鳩にたいして嘘をついているのでしょうか？\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　嘘と真実。建前と本音。見かけと中身。こうしたテーマはミステリでは王道といっていいでしょう。なにせ、この『倫敦スコーンの謎』という短編集じたいがそうしたテーマに貫かれているのですから。「桑港クッキーの謎」における盗作か否かという問題も、フォーチューンクッキーというモチーフも、それから見た目はしっかり焼けているのに生焼けのスコーンも、スコーンの本場はいったいどこなのかという話題も、それからそれから……。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　そしていわずもがな、2人はこの先の未来に『夏期限定トロピカルパフェ事件』を控えています。あの夏の事件を見据えて『倫敦スコーンの謎』が執筆されたことは明らかです。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　それにしても。仮に小鳩へかけた言葉に嘘が含まれていたのだとしたら、なぜ小佐内は正直にいわなかったのでしょう。その理由が、まだいまいち判然としません。\u003cbr\u003e\n　彼女の持つ狡猾さ、慎重さゆえ？　まあ、たしかに。うん。それも大いにありうるかもしれない。そう思わせるだけの心当たりを、読者はあまりにも多く持ちすぎている。\u003cbr\u003e\n　湧き出す恐怖と猜疑のこころをおさえつつ、この女子高生についてもう少し寄り添って考えてみましょう。小佐内は「倫敦スコーンの謎」のなかで、次のようにも語っていたのでした。\u003c/p\u003e\n\u003cblockquote\u003e\n\u003cp\u003e「沢海さんの手順にミスがないのなら、失敗したのは沢海さんだとは書けないって思ってた。万が一レポートが公開された時の、クラスの人間関係を考えるとね」\u003csup id=\"fnref:3\"\u003e\u003ca href=\"#fn:3\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e3\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/blockquote\u003e\n\u003cp\u003e　沢海さんの手順にミスがないのなら。おそらくですが、小佐内にとってなにより大事なのはこの仮定の部分です。\u003csup id=\"fnref:4\"\u003e\u003ca href=\"#fn:4\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e4\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003cbr\u003e\n　たとえば真相が、「沢海に恨みを持っていた人間がスコーンを入れ換え」だったと仮定しましょう。\u003csup id=\"fnref:5\"\u003e\u003ca href=\"#fn:5\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e5\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e。その事実じたいにたぶん小佐内は興味がない。犯人がだれかも二の次なのかもしれません（真相によっては復讐に打って出る可能性もありますけれど……）。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　失敗した原因そのものはわからなくてもいい。だけど、「手順に間違いがなかったかどうか」だけははっきりと知りたかった。だからこそ、わざわざロンドン風のスコーンを提供し、それを目の前で調理してくれる店まで赴いたのでしょう。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　では、なぜ「手順」がそこまで大事だったのか。本作の中で小鳩が次のように語っていたことを思い出しましょう。\u003c/p\u003e\n\u003cblockquote\u003e\n\u003cp\u003eぼくはお菓子に詳しくないけれど、小佐内さんと行動する中で、いくつか学んだことがある。その中の一つが、お菓子作りとは科学であり、再現性があるのだという原則だ。間違った手順で作れば、失敗する。手順が間違っているのに、たまたま成功したりはしない。失敗の結果が想定外のおいしさや食感を生み出すこともあるらしいけれど、それだって、当初のレシピからすると失敗の範疇にあることは変わらない。\u003csup id=\"fnref:6\"\u003e\u003ca href=\"#fn:6\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e6\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/blockquote\u003e\n\u003cp\u003e　おそらく小佐内にとってのお菓子とは、食べると美味しくて幸せな気分に浸らせてくれるものであると同時に、ひとつの精神的な寄る辺なのではないか。分量と手順を正しく守りさえすれば、必ず正解にたどりつけるもの。\u003cbr\u003e\n　そしてこれはあきらかに『秩序』についての話です。ミステリにおいて探偵が回復することを期待されている類のものにも似た。\u003cbr\u003e\n「秩序」を守るためにこそ、探偵の力、小鳩の力が必要だった。\u003csup id=\"fnref:7\"\u003e\u003ca href=\"#fn:7\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e7\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e「倫敦スコーンの謎」を、わたしはそうした小説だと受け取りました。\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　それで……けっきょく、「倫敦スコーンの謎」において小佐内は小鳩に嘘をついたのでしょうか。\u003cbr\u003e\n　たぶん、部分的に。もしかしたら、小佐内じしんも嘘をついたとまでは考えていなかったかもしれません。彼女の視点から物語が語られない以上、確定的なことはいえないままです。\u003c/p\u003e\n\u003cblockquote\u003e\n\u003cp\u003e「ありがとう、小鳩くん。これで残るのは、最初の問題だけ」\u003cbr\u003e\n最初の問題というと……なんだっけ。ぴんとこないでいると、小佐内さんはちょっと困ったように微笑む。\u003csup id=\"fnref:8\"\u003e\u003ca href=\"#fn:8\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e8\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/blockquote\u003e\n\u003cp\u003e　なぜ、小佐内は困ったように笑ったのでしょう。小鳩がいつものように謎解きそのものに熱中して、「レポートにどう書くか」という相談内容を忘れてしまっていたからに違いありません。\u003csup id=\"fnref:9\"\u003e\u003ca href=\"#fn:9\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e9\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/p\u003e\n\u003cp\u003e　ここまで考えたとき、わたしはふたたび『夏期限定トロピカルパフェ事件』に思いを馳せざるを得なくなります。ああ、「倫敦スコーンの謎」の小鳩と小佐内の延長に、『夏期限定トロピカルパフェ事件』の2人がいるんだなぁということがはっきりと、そしてしみじみとわかってくる。\u003c/p\u003e\n\u003cblockquote\u003e\n\u003cp\u003eこれはどう控えめに表現しても、タチの悪い嘘だ。……嘘つきだ。\u003csup id=\"fnref:10\"\u003e\u003ca href=\"#fn:10\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e10\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/blockquote\u003e\n\u003cp\u003e \u003c/p\u003e\n\u003cblockquote\u003e\n\u003cp\u003eこんなにも嘘ばっかりなんだもの。……わたしたちが「狐』であり「狼』だっていうのも、きっと嘘なんだわ。\u003csup id=\"fnref:11\"\u003e\u003ca href=\"#fn:11\" class=\"footnote-ref\" role=\"doc-noteref\"\u003e11\u003c/a\u003e\u003c/sup\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/blockquote\u003e\n\u003cp\u003e　正直にいえば、わたしはもともと『夏期限定トロピカルパフェ事件』について、そこまで評価していませんでした。「ここまで人間はたやすく動かされるだろうか？」「2人の感情の吐露にうまくついていけない」。その疑念をどうしても拭いきれなかった。\u003cbr\u003e\n　短編集『倫敦スコーンの謎』はそうした不満にたいする、作者からの1つの回答でしょう。あの夏の事件へと至る2人の道行きを、あくまで短編ミステリの形式は保ちながら描いてみせた。\u003cbr\u003e\n　想像以上に難しかったはずです。「後出しの帳尻合わせでどうとでもなるだろう」だなんて読者を舐めた様子は感じさせない。そうした姿勢に、私は米澤穂信の作家としての矜持を見ました。\u003c/p\u003e\n\u003ca class=\"article-card\" href=\"https://www.amazon.co.jp/倫敦スコーンの謎-創元推理文庫-米澤穂信/dp/4488451136\"  target=\"_blank\" rel=\"noopener noreferrer\"\u003e\n  \u003cimg class=\"article-card-image\" 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id=\"fn:1\"\u003e\n\u003cp\u003e米澤穂信著『倫敦スコーンの謎』, 東京創元社, 2026年4月, 160ページ\u0026#160;\u003ca href=\"#fnref:1\" class=\"footnote-backref\" role=\"doc-backlink\"\u003e\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\u003c/a\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/li\u003e\n\u003cli id=\"fn:2\"\u003e\n\u003cp\u003e米澤穂信著『倫敦スコーンの謎』, 東京創元社, 2026年4月, 205ページ\u0026#160;\u003ca href=\"#fnref:2\" class=\"footnote-backref\" role=\"doc-backlink\"\u003e\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\u003c/a\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/li\u003e\n\u003cli id=\"fn:3\"\u003e\n\u003cp\u003e米澤穂信著『倫敦スコーンの謎』, 東京創元社, 2026年4月, 204ページ\u0026#160;\u003ca href=\"#fnref:3\" class=\"footnote-backref\" role=\"doc-backlink\"\u003e\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\u003c/a\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/li\u003e\n\u003cli id=\"fn:4\"\u003e\n\u003cp\u003eその続きである「失敗したのは沢海さんだとは書けないって思ってた」も、厳密に読もうとするならなんだか不思議な文章です。これだともし手順に看過できないほどのミスがあったのなら、沢海の責任だとレポートに書いた可能性もあるみたいに読めます。本文中で見たように実際はそうしなかったどころか、そんな気持ちすらなかったようですが……本当か？\u0026#160;\u003ca href=\"#fnref:4\" class=\"footnote-backref\" role=\"doc-backlink\"\u003e\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\u003c/a\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/li\u003e\n\u003cli id=\"fn:5\"\u003e\n\u003cp\u003e入れ換えがあったかどうかについてはp.174で否定されています。じゅうぶんに議論を尽くしたかというと若干疑問は残ります……が、このエントリ中にあるとおり、おそらくその点を小佐内は最初から問題にしていない、というのがわたしの読解です。\u0026#160;\u003ca href=\"#fnref:5\" class=\"footnote-backref\" role=\"doc-backlink\"\u003e\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\u003c/a\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/li\u003e\n\u003cli id=\"fn:6\"\u003e\n\u003cp\u003e米澤穂信著『倫敦スコーンの謎』, 東京創元社, 2026年4月, 155ページ\u0026#160;\u003ca href=\"#fnref:6\" class=\"footnote-backref\" role=\"doc-backlink\"\u003e\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\u003c/a\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/li\u003e\n\u003cli id=\"fn:7\"\u003e\n\u003cp\u003eそれとも小鳩はたんなるダブルチェック要員だっただろうか？　いや、とうぜん小佐内は小鳩が謎解きに夢中になるだろうとほとんど確信と半ば諦めの気持ちを抱いていたに違いない。\u0026#160;\u003ca href=\"#fnref:7\" class=\"footnote-backref\" role=\"doc-backlink\"\u003e\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\u003c/a\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/li\u003e\n\u003cli id=\"fn:8\"\u003e\n\u003cp\u003e米澤穂信著『倫敦スコーンの謎』, 東京創元社, 2026年4月, 204ページ\u0026#160;\u003ca href=\"#fnref:8\" class=\"footnote-backref\" role=\"doc-backlink\"\u003e\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\u003c/a\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/li\u003e\n\u003cli id=\"fn:9\"\u003e\n\u003cp\u003eしかもそれが嘘の言い訳だったからから……とまで考えるとおそらく妄想の領域に足を踏み入れてしまいます。\u0026#160;\u003ca href=\"#fnref:9\" class=\"footnote-backref\" role=\"doc-backlink\"\u003e\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\u003c/a\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/li\u003e\n\u003cli id=\"fn:10\"\u003e\n\u003cp\u003e米澤穂信著『夏期限定トロピカルパフェ事件』, 東京創元社, 2006年4月, 224ページ\u0026#160;\u003ca href=\"#fnref:10\" class=\"footnote-backref\" role=\"doc-backlink\"\u003e\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\u003c/a\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/li\u003e\n\u003cli id=\"fn:11\"\u003e\n\u003cp\u003e米澤穂信著『夏期限定トロピカルパフェ事件』, 東京創元社, 2006年4月, 226ページ\u0026#160;\u003ca href=\"#fnref:11\" class=\"footnote-backref\" role=\"doc-backlink\"\u003e\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\u003c/a\u003e\u003c/p\u003e\n\u003c/li\u003e\n\u003c/ol\u003e\n\u003c/div\u003e","title":"製菓の意味とその手立て：米澤穂信「倫敦スコーンの謎」"}]