『THE MONKEY/ザ・モンキー』ビジュアル
『THE MONKEY/ザ・モンキー』(監督:オズグッド・パーキンス、2025年)© 2025 C2 MOTION PICTURE GROUP, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

サルに翻弄される

 ある男がアンティークショップとおぼしき店に、サルのおもちゃを売りにくる場面から物語は始まる。制帽をかぶり、血まみれの制服を着た彼は、サルを差し出して店主にこう告げる。

これを一刻も早く手放したい。
息子たちのために買ったが、息子らは絶対に喜ばない。

 
 このように幕を開けた映画が「家族」を軸に展開することは、なにも不思議ではない。
 映画のほとんどの時間で視点人物を担うハル。
 彼を虐げる双子の兄であるビル。
 彼らをひとりで育てる母親のロイス。
 そして失踪してしまった、アバン以外は登場しない飛行機のパイロットである父親――だから彼は制服を着ていて、ことあるごとに妻や息子たちにお土産を買ってきていて、あのサルもそのひとつだった。

 1999年から始まった物語は、多くの死を経てやがて25年後へと飛ぶ。ハルは結婚し、一児の親となったが、サルへの恐怖心はいまだに残っている。いつか、サルがまた戻ってくるかもしれない。そうした不安から、周囲を巻き込まないようにするため、彼は妻と離婚し、家族と距離を置くようになっていた。

 ハルはみずからの父親とはまた違ったかたちで、父親としての役目を果たせていない。学校から家系図をつくる課題を出されている息子のピーティーの質問を、彼は何度もはぐらかす。家族の話を、どうしても正直に打ち明けられない。

『THE MONKEY/ザ・モンキー』は家族と、その死がもたらす心の傷からいかに立ち直るかの話である、と要約したとして、それは間違いとはいえないはずだ。映画からテーマを引き出そうとするのであれば、むしろ自然な解釈といえる。ハルは、息子であるピーティーと家系図について次のようなやりとりをする。

ピーティー「聞いても?」
ハル「今度にしろ」
ピーティー「母親の死因は?」
ハル「家系図だったら “いつ” と “誰” でいいだろ。“なぜ” や “どうやって” じゃなく」

 さらに付け加えると25年前には、ハルの母親・ロイスはベビーシッターだったアニーの葬儀で次のように息子たちに語っていた。

すべては事故なのよ。もしくはすべてが必然。どちらも同じこと。
“もし” でもない。“どのように” でも。問題は “いつか”。
誰でも死ぬ。それが命よ。

 ロイスの発言は一種の人生訓だ。人生の理不尽さ・不条理さ、そして命の有限性に対する忍従の姿勢だ。
 ただし、少し乱暴な理屈ではある。逝年が同じなら、殺人も自殺も病死も同じということにはならないだろう。“いつか” が問われるのであれば、たいてい他の疑問もセットになってくっついてくるはずだ。
 ロイスは達観してしまっているのだろうか。いや、違う。それは直前のシーンを見ればわかる。

 教会で新米の司祭から、「なぜ死んだのはあなたではなくアニーだったのか」という問いとともに目配せをされた際のロイスの反応を思い出そう。彼女はまるで弾かれたように、一度司祭から目を逸らしたのだった。
 なにを想像したのだろう? きっと自分の死の瞬間を、それから2人の子どもを残して先に死んでしまうだろうことを想像して。

 ロイスは死を恐れている。だからこそ息子たちへの助言の体裁をとりながら、自分にも言い聞かせているのではないだろうか。「死についてあれこれ考えるな」と。

 しかし、人間は「死」にたいして考えこまずにはいられない。それがあまりにも唐突で、大仰で、親しい人間のものであればなおさらだ。死はさまざまな疑問を喚起する。「どうして?」「なぜあのひとが?」「きっとなにか理由があるはずだ」と。
 
 そんな人間に対して、サルはまさに事故や病気、自然災害のように命を奪っていく。ほとんど神の気まぐれにさえ思える。どうやって殺すか、その手段だってバラバラだ。まさしくサルにとって重要なのは “いつ” だけなのだろう。
(そう考えるとやはりサルが持つのはドラムよりシンバルのほうがふさわしかったのではないだろうか。ディズニーはどう思う?1)

サルとともに生きる

 劇中、大人になった双子の兄・ビルはチャイニーズレストランでフォーチュンクッキーの中のおみくじから “啓示” を得る。あきらかにサルからのものとおぼしきメッセージが書いてある紙から顔をあげると、視線の先に「2016年 申年」と書かれたカレンダーが掛かっている。
 ビルは確信する。サルが戻ってきたのだ、と。

01:01:49~

 しかし、これはよく考えると少し不思議だ。物語は1999年から始まり、そのあと25年後へと飛ぶ。双子が久しぶりに再会するのもそのときだ。
 つまり、ビルが2016年からあちらこちらにサル帰還の兆しを見るようになったのが事実だとしても、じっさい彼がサルを手に入れるまではだいぶ時間がある(まあカレンダーが2016年のまましばらくレストランに飾られていたという可能性もないではないが)。
 そもそも申年というのであれば、2004年だってそうだった。ちなみに1999年は卯年だ。

 ビルが見たサル帰還の兆候は、母親を亡くした心の傷が、おとなになっても癒えていないせいで見た幻だったのだろうか。そうかもしれない。そうではないかもしれない。問題はそこではない。ビルはそこに「徴」を読みとり、みずからの行く道を決めた。この点が重要なのである。

 いつか誰でも死ぬ。母・ロイスのいったとおり、それは真実だろう。サルによる殺戮行為に意味や理由なんてなく、たまたま選ばれてたまたまそのときに死んだ。運命。それだけなのかもしれない。

 しかしだからといって残された側が、「はいそうですか」とすぐに気持ちを切り替えられるわけではない。生者にとって、死はどうにかして折り合いをつけるべきものなのだ。たとえそのやり場のない感情の行き着く先が間違っていたとしても。

『THE MONKEY/ザ・モンキー』は、大勢の人間が迎えるバカバカしい死の瞬間をテンポよく描いている。そんな映画の感想でいうことではないかもしれない。それを重々承知でいわせてもらうと、ここには命を奪う側と、奪われた側の非対称性がある。命を奪う行為に意味や理由はなくても、命を奪われた側にとって、それは大きな問題なのだ。

 ビルはハルがサルのネジを巻いたせいで母が死んだと考えた。だからこそ、母親への執着2を断ち切れない彼は復讐を決意する。ハルもハルで、自分が間接的に母を殺したであろう罪悪感に苦しんでいる。
 そんな双子が和解するきっかけとなるのは、ハルが「つらいよな。母は僕の母でもあった」という言葉である。ビルはここでようやくハルのつらさにも思い至り、心を改めようとするのである。

 この和解にたいして、やや拙速なのではないかという指摘は妥当だろう。あのとき、「ネジを巻けば誰かが(できれば兄が)死ぬだろう」ということは、幼いハルにもわかっていた。もちろん、母が選ばれたのは偶然だろう。しかし、ハルがサルのネジを回したのは事実なのだ。そうした事実を無視して和解に至っていいのだろうか。
 この疑問に答えるためには、あの和解の段階で、2人がサルをどういう存在として認識していたかを見る必要がある。

 サルがもたらす死には理由がなく、対象となる人や手段を選ばず、人間が狙ったとおりに機能するわけでもない。ビルはサルを使ってハルを殺そうと試みたが、まったくうまくいかず、ほとんど無関係な人間ばかりが犠牲になっていった。2人はそうしたサルの性質を嫌というほど知っている。
 だからこそ、彼らは和解することができたのだ。ビルがハルを、ハルが自分自身を許すそのとき、サルが人間の手に負えない存在であることが、ある種の救いとして機能している。
 
 ビルはハルをいじめていた。ハルは、ビルが死ねばいいと思ってサルのネジを巻いた。サルは人間の命を奪う。ロイスが選ばれた。母を失った悲しみから、ビルはサルを使ってハルを殺そうとする。しかし、うまくいかない。代わりに他の大勢の人間が死んでしまう。サルは人間の思い通りにならない。それが、ハルにもビルにも身に染みてわかる。そしてロイスは、ハルとビル、2人の母親だった。

 アバンのラスト、ハルのナレーションによって、父がおみやげとして買ってきたサルは「遺産」と呼ばれていた。そして作品終盤で、ハルはそのサルを兄から継承することになる。父の「最近親者」であり、自分こそが「法的」なサルの所有者だと主張していた兄から、だ。
 そして息子・ピーティーからの「サルをどうにかしなくちゃ」という言葉に応えてこう言う。「保管するよ。家族の物として守り続ける」と。ハルは彼なりに、身近な人間の死と折り合いをつけ、その原因であるサルとも付き合っていくための方針を見つけられたのだろう。

 以上、見てきたように、『THE MONKEY/ザ・モンキー』には間違いなく家族ドラマ3的な側面が存在している。
 しかし、本作が不条理ホラーコメディ映画であることもまた揺るぎない事実だ。家族ドラマとして成立していればいるほど、賑やかしとばかりに消費される脇役やモブの命の軽さも際立つ。この作品には、死の重さと軽さが同居している。そして映画は、登場するすべての人物に等しい重みを与えられるわけではない。

サルに謝罪する

 家族の喪失をめぐるドラマと、無関係な人間が死ぬことのおかしさが、同じ娯楽作品の中で共存していること。
 論難したいのではない。これは『THE MONKEY/ザ・モンキー』に限った話ではなく、あらゆるフィクションがもちうる性質であり、不思議さだ。わたしたち鑑賞者は、作品がなにかしらの矛盾や相反するような要素を含んでいようと、それを積極的に受け入れることができる。1つの作品が扱う「不条理な死」にたいして、ある場面では手を叩いて笑い、ある場面では物思いに沈むことができる。

 劇中、サルによる殺戮がどれだけ気まぐれにみえたとしても、そこにはだれかしらの意図がある。それは当然、オズグッド・パーキンスをはじめとした制作者たちだ。
 なるほど、サルがもたらす死は、サル自身にとっては理由のないものなのかもしれない。サルは命が好きなだけなのだろう。
 しかし劇中、サルはしかるべきタイミングで、しかるべき人物を、ド派手なやり方で殺すことで、「もしもあのとき……」という感情を双子に植えつけ、物語を先へ先へと駆動させる。ついでに名もなきモブも大量に殺す。そのくせ、なぜか都合よく動作しないときもある。サルの行いはこの『THE MONKEY/ザ・モンキー』という映画で、あきらかに意味を担っている。制作者に操られている。4

「んな当たり前な」と思うかもしれない。わたしもそう思うので安心していい。難癖をつけているようにしかみえないだろうが、難癖をつけることが目的ではない。
 
「それは違う。サルが残酷に、ときにバカバカしく人間を殺すのは、人間のように死に畏敬の念を抱いたり、過剰に意味づけしたりしていないからだ。制作者は自分たちが定めた設定に準じたに過ぎない」
 このように抗弁することは可能だろう。しかし……少なくともそれはわたしには欺瞞だ。わたしはこれがホラーコメディ映画で、たくさん人が死ぬだろうことを期待したうえで見た。これは否定しがたい事実だ。

 なぜ彼らがこんなホラーコメディを約100分の尺でつくったのか。それはおそらく、“いつ” 人が死ぬかだけでは鑑賞者が満足しないからだ。人がたくさん死んで、死に方のバリエーションも豊富。笑えるうえに人間ドラマまで備わっている。それでいて100分くらいで終わってくれる。そこそこ金や時間をかけるにはうってつけの、そんな映画。見世物。

 終盤、ピーティーは終末世界さながらの街を眺めながら次のように口にする。

人が誰でも死ぬのはわかるけど、全員が一気に死ぬのは変だ。

 この言葉は奇妙に胸に響く。そう、とてつもなく変なのだ。人がたくさん死ぬということは。けっしてあってはならないことだ。
 そしてこの感慨はたぶん、あのバカバカしいまでの惨状が描かれることなしにはありえない。ここには切実なアイロニーがあるが、同時に度し難い不真面目さもある。わたしは真摯になりきれない自分のことが少し嫌いになるが、やがてすぐに忘れてしまう。

 もともとOrgan Grinder’s Monkeyとは、街頭音楽家が奏でる手回しオルガンの音に合わせて踊ったり、シンバルを叩いたりするサルを指していた。ようするに、サルは音楽家によって観客ウケがよさそうな芸を仕込まれ、そのように振る舞っているにすぎない。

 わたし(たち)は、サルに謝らなくてはいけないかもしれない。

00:07:34~ 劇中でサルが収められていた箱には「Organ Grinder Monkey」と箔押しされており、アポストロフィーエスがない。

  1. https://www.gamesradar.com/entertainment/horror-movies/the-monkey-director-explains-how-a-bizarre-copyright-issue-actually-improved-the-comedy-horror-movie-thanks-disney/  ↩︎

  2. 作品の冒頭で、ハルはナレーションで兄についてこう語っていた。「僕より3分先に生まれ、ママの胎盤を独占し、“兄” として君臨」。この時点で、兄にマザコン気質があるかもしれないことが示されている。さらに付け加えると、 “いつ” というタイミングの問題が早くも顔を出していることが見てとれる。 ↩︎

  3. 家族ドラマとして考えたとき、双子を引き取ってくれた伯父夫婦が、子どもを持たずにスワッピングを楽しんでいる設定はだいぶ気になる。兄・ビルは伯父の死に際して彼を「死んでもいい。イヤなやつだし」と評している。その後、成長したビルがおそらく家族を持っていないことも含め、そこから監督の思想を読み取れるかもしれない……が、引きとってくれるだけいいじゃんねという気もするな。たんにビルが伯父の姿に、子どもを蔑ろにする父を重ねただけかもしれない。少なくとも映されてるかぎりでは、ビルが言うほど悪い人に見えないんだよなー。 ↩︎

  4. 「サルは “いつ” 命を奪うかにしか興味がない」ことを強調しなければいけないからこそ、ビルはあのタイミングであのような顛末を迎える必要があったのだと思う。そうしなければ「けっきょく主要人物は特別扱いじゃん」と指摘されかねない。誰かが死ぬ必要があった。かといってハルやピーティーを死なせるわけにはいかない(悲劇に寄ってしまうから)。「じゃあそれってやっぱり作為じゃないですか?」そう、そうなんだよな、無限後退……。 ↩︎