
「昔からのすべて。他には何も。ずっとためされ。ずっと失敗され。構わない。またためす。また失敗する。もっと良く失敗する」
(サミュエル・ベケット著 長島確訳『いざ最悪の方へ』1)
1.「失敗を恐れるな」だなんて悪い冗談
教科書的な話題から入りましょう。なぜなら必要なので。すぐ終わります。
ツェッテルカステンはドイツの社会学者であるニクラス・ルーマンによって編み出されたメモ術です。
学者、しかも社会学の。ツェッテルカステンについて考えるうえで、この点は見過ごせません。
たとえば、読んだ本の主張を自分なりの言葉でパラフレーズする。その主張を実証する例、もしくは反証する例を集める。自分の見解を付け加える。元の本の出典を明記する。アナロジーによってリンクを張る。
これらはすべて論文を書くために最適化された方法です。とくにルーマンの専門である社会システム理論を展開するにはツェッテルカステンがひじょうに有用であることは想像に難くありません。
そのツェッテルカステンはルーマン以外の人たちにも便利なものでした。きっと今でもそうなのでしょう。ですから、そこから発展して自己啓発書や情報商材のひとつとしても扱われるようになっていったことに、なんの不思議もありません。
ツェッテルカステンは以下のような売り文句とともに語られることが多いです。いわく、「問題を解決するための画期的なメモツール」「自分と深く対話するために必要な真に実践的な方法」などといったような。
しかしそうなってしまうと語られるのが長所メインになってしまうんですね。あとはとうぜん具体的なメソッドの数々。精神的なフォローは「とにかく習慣化するまで手を動かせ」「メモがたくさん増えると創発が起こるから信じてやれ」が多いです。要するに「失敗を恐れるな、結果は後からついてくる」。これです。
上記のようなアドバイスで励まされる人はそれでいいと思います(皮肉ではなく)。
残念ながらわたしは違いました。いくらいわれても不安でしたし、ツェッテルカステンの効果について疑いの目を向けていました。正直にいえばまだ完全には信じていません。
つまり、そう、時間と労力をかけて「失敗」したくなかったのです。そもそも、失敗が怖くないのであれば先人に教えを請うたりはしないのですから。
「失敗を恐れるな」といわれると、失敗がよけいに悪いものに思えてくる。
たとえばわたしにとっていちばんの難関は「アナロジーでリンクをつなぐ」ということでした。アナロジー(類推)は連想でもなければ単純な共通点でもありません。構造が似ている必要があるのです。ニュアンスとしては点ではなく線や面のレベルで似ている、という感じでしょうか。
適切なアナロジーというのはほんとうに難しいです。自分を律しなければ凡庸で使い物にならないリンクができあがってしまう。雑語りや謎かけと見分けがつかなくなってしまう。SNSでも見かけませんか、急に関係ないこと繋げて自身の怒りにバフをかけている人。あれになっちゃいそうで不安。
かといって厳密に見極めようとすると飛躍が足りなくなります。アナロジーの意味がないんですね。さらにもっと悪化すればリンクを張ることすらできなくなってしまう(だってちょっと考えれば両者が別物だなんてたいていの場合は自明ですから)。
人間である以上、うまくアナロジーで繋げなかったリンクが発生してしまったり、隙の多い主張を高く評価してしまったりすることは避けられません。模範的なツェッテルカステンユーザーは、そうした人為的な誤りこそが思考の摩擦を生み、メモの群れが作り出すカオスに奉仕し、創発を促すのだというのかもしれません。だからこそ、「とにかく書かなければいけない」と。
きっとそうに違いない。そうなのかもしれない。本当にそうかな? 失敗はやっぱり失敗なんじゃないだろうか。そこを認めてしまわないかぎり、私には自己との対話も、創発も、カオスも、なんだか遠いものに感じられる。
もしかしたら最初は摩擦も創発やカオスといったワードも、失敗や不安をどうにかポジティブなものへと変換しようという先人たちの試みだったのかもしれません。ある種のパラフレーズですね。
しかし、わたしのようなひねくれた人間には、その前向きさが逆に重たい。手が止まる原因になってしまう。
であれば、やらなくてはいけません。わたしなりにツェッテルカステンの思想をパラフレーズし直してみることを。そのステップを経て初めて、自分にとってメモを取ることにどういう意義があるのかをつかめる気がする。
その用途に最適だったのがわたしの場合は「ゲーム」という概念でした。それも「クソゲー」と呼ばれる類の。
元からバランスを欠いたゲームなのだからうまくできなくても仕方ない。そんな諦めにも似た納得。わたしに必要だったのはそれです。
パラフレーズ。抽象化。そして類推。話を少し先取りするならば、以下でわたしが書くことは、発想法としてはいかにもツェッテルカステン的な営みの実例です。2いくぶん皮肉なことに、わたしはツェッテルカステンをあえて「クソゲーだなぁ」と断定してみることで、このメモ術との和解への一歩を踏み出したといっていい……のだと思います。たぶん、きっとね。
2. 枚数制限なし、多色デッキ、おまけにデザイナーはわたし
ツェッテルカステンにおいてメモはカードとも呼ばれます。なのでここはゲームはゲームでも、ツェッテルカステンをカードを使ったゲームとしてとらえてみましょう。リンクはコンボやシナジーと考えるとおもしろいかもしれません。
では、ここに1枚のカードがあるとしましょう。カードにはさいきん読んだ本で展開されていた主張の一部を抽象化して簡潔にまとめ直してあります。コピペではなくもちろん自分の言葉で、です。
たとえば生物学の本から『生き残るためには進化(変化)し続けなければならない』という赤の女王仮説のエッセンスだけを抽出して、1枚の独立したノートにするようなイメージです。3
わたしはそのメモにたいしてすぐに具体的な反論――それもちょっと文章量が多くなりそうな――が思いつくかもしれません。「変化のコストが高すぎる環境では、あえて停滞することが最適解になるケースもあるのではないかうんぬん」といったように。その場合、また1枚カードが増えることになります。ツェッテルカステンは1枚1トピックが基本なので。
1ヶ月後、別の書物の中に自分の反論を裏付けるような具体例を見つけました。その場合でもカードは1枚増えます。
これはつまりこういうことです。仮にわたしがアナロジーによるリンクを1つも思いつかなかったとしても、1つのメモが他の複数のメモを自然と産んでしまう。ツェッテルカステンは自己参照的なのですね。
カードを使ったゲームとして考えるとこれはちょっと困った事態です。なにせ手札がどんどん増えていくのですから。基本的にツェッテルカステンではデッキの圧縮といった手段は取れません。手札の増加はシステムが要求するものであり、避けられない事態なのです。まともなゲームデザイナーであればすぐさま調整をいれるべき部分でしょう。ゲームバランスどころかシステム設計に問題がある。
そして、そう。アナロジーによるリンク。
あるメモとまったく別の分野のメモのあいだに類似の構造をみつけてつながりを作ること。その飛躍によって硬直化した思考を乗り越えよう。それがツェッテルカステンの目的でした。
問題を解決するにあたって多角的な視点を養う。自分が普段している頭の使い方からは出てこないような、意外な創発を期待する。それらの目的のためには。さまざまな分野のカードが必要になります。つまり、手札が自然と多色化してしまう。
これもまたゲームとして考えると厄介なポイントです。TCGでは属性を1つか2つに絞ってデッキを組むのが常道でしょう。枚数制限がないうえに多色のデッキなんて悪夢でしかないのですから。コンボ (リンク) を繋げるのに一苦労をともなうのはごく自然なことです。
では『Slay the Spire』のようなゲームならどうでしょうか。ローグライク型デッキ構築では、ゲームの流れに沿って「今回はこっちの方向でビルドしてみよう」と臨機応変に方針を決めていきます。ものすごくざっくりいうと運に左右されるわけですね。
こうして考えてみると、TCGよりはこっちのほうがツェッテルカステンに近いように感じます。ツェッテルカステンもまた偶然性、セレンディピティに重きを置いているのですから。
ランダム報酬そのものにみえるものだって、ツェッテルカステンには存在します。いや、「するらしい」というのが正確か。かつての自分が導いてくれたかのような、「創発」としか表現しようのないつながりがそれにあたるのでしょう。4問題解決というボス(目標)も存在しているわけだし、あれ、もしかしてツェッテルカステンって『Slay the Spire』なの?
『Slay the Spire』をアナロジーの柱として考えるツェッテルカステンというテーマは、たしかに掘り甲斐がありそうではあります。しかし、いわずもがな『Slay the Spire』はクソゲーではありませんし、ツェッテルカステンでもありません。
今回のエントリでわたしが「ツェッテルカステンってもしかしてクソゲーなのでは?」というときのクソゲーとはどういうものか。それは「際限なく増え続けるカード」、「すべてが自分しだい」という2点においてです。
1つめについてはすでに説明しました。では2つめ、「すべてが自分しだい」はどういうことか。
このコンボは有効なのか。シナジーはうまく機能しているのか。それで得られるリターンはどんなものでスコアはいくらなのか。こうした事柄を自分ひとりで判断する必要が出てくる。
以前はすばらしいコンボだと思えていたメモ間のつながりが、いつのまにか陳腐で価値のないものに思えてしまう。いつ、だれが、こんなクソみたいな調整を? 知らないうちに、たぶんわたしが。
たとえば、先に挙げた「赤の女王仮説」ってすごく便利なんですよね。つなげようと思えば他のいろんなカードにつなげられそうな気がしてくる。でも、それではダメなんです。毒にも薬にもならない一般論でリンクをつないでも意味がない。「赤の女王仮説」はコンボの起点になる強いカードに見えて、実は扱いがとても難しい。その取扱いの難しさを、ユーザーは見極める必要がある。
そもそもカードの追加すら自分でやらなくてはいけないのです。自己参照的がどうだといっても実際に手を動かすのは他ならぬわたしでしかない。なんでもかんでもカード化していたらあっというまにシステムがダウンしてしまう。
デザイナーもプレイヤーも、そしてほとんどの場合――パーマネントノートとして成長し、ブログやミーティング、プレゼンなどの公の場に発表されないかぎりにおいては、観客すらも1人で兼ねているのがツェッテルカステンなのだといえます。1人3役。手に負えないね、こんなのは。
だからこそ「メモ同士をつなげて、自分の主張が展開できるほどにまで育ったら、ぜひ公の場に公開すべきだ」という先人たちのアドバイスが存在するのでしょう。孤独は耐えがたいものだから。メモたちはつながっているのに、メモを書いている当人がOrphan5なのはよくないから。
こんな、著しくバランスの悪いゲームが存在するでしょうか? しません。なぜならツェッテルカステンはノート術であってカードを使ったゲームではないのですから。これはあくまで思考の実験、エクササイズです。
しかし、「ツェッテルカステンがゲームだったとしたら?」と考えてみることには意味があります。大いに、と思い切っていってみましょう。
それは、「失敗や不完全さを許容しやすくなること」。これに尽きるとわたしは考えます。
3. とても下手でも、なお楽しんでいる感覚
ゲームは失敗を前提にしたメディアです。本当ならツェッテルカステンだってきっとそうなのです。そこでは失敗はごくごくありふれています。できればしたくなくて、悔しく思うときもあれば怖く感じるときだってある。成功を生む失敗もあるだろうけれど、失敗でしかない失敗もあるでしょう。どこにもつながらない、学びのない失敗。それでも、システムそのものに失敗が前提とされているのであれば、少し気持ちがラクになる。
いや、きっと「失敗を恐れるな」とアドバイスしてくれた先人たちは最初からそのような意味も含めていってくれていたのかもしれません。それがわかっていなかったんだな。
ここでちょっと寄り道をしてみたいです。Real Soundテックというサイトで2026年05月から7回にわたって『ベネット・フォディを中心に見るインディーゲーム小史』と題された評伝が掲載されました。『Getting Over It with Bennett Foddy』、通称・壺おじの作者に関する連載です。
“壺おじ”を生んだ「ベネット・フォディ」とは何者か個人開発インディーゲームの歴史を変えた重要人物の足跡を辿る
リアルサウンドテックではSF作家にして批評家、そしてインディーゲームの熱心なプレイヤーでもある千葉集による「ベネット・フォディを中心に見るインディーゲーム小史」を、全七回にわたってお届けする。大流行するインディーゲームの現在の起源と、重要な役割を果たしたフォディの足跡を知る手がかりとなれば幸いだ。この連載、1人の人間の半生記として、また1つのコミュニティ史としてもすこぶる面白いのでぜひ通して読んでみてほしいのですが、とりあえず今はその 第6回 、まさに『Getting Over It with Bennett Foddy』についてフィーチャーした回から、孫引きになってしまいますがベネット・フォディの発言を一部引用します。
「ゲーム、いや芸術一般ができることで、わたしにとって大切なのは、人々が『絶対に自分は好きじゃない』と確信しているものに対し、ある種の体験を与えることで『いや、もしかしたら好きなのかもしれない。こういう見方をすれば好きになれるかもしれない』という議論を提示できることです。
だから、これは“負ける”という感覚でそれをやってみせようとしている。『うまくなる』ことが本質なのではありません。『うまくなろうとして失敗し続けること』がどういうものか、についてなんです」
これでいい。これでじゅうぶんです。わたしがこのエントリで伝えようとして試行錯誤してきたことの大半を代弁してくれている。
正直、わたしはツェッテルカステンに反感と猜疑の目を向けていました。それでもなんとか理解したい、と思ってしまった。なぜこのメモ術に多くの人が惹かれてきたのか気になってしまった。そのせいでこのメモ術をカードを使ったゲームにたとえてあれやこれやと書いてきたのです。できるかどうかは別として、フォディがいうところの「とても下手でも、なお楽しんでいる感覚」、それをツェッテルカステンを通して味わえたのならさらに良いのでしょう。6
もちろんツェッテルカステンはシステムではあるかもしれないけれど、それじたいがゲームやアートではありません。その事実は忘れてはいけない。だからわたしがここでいまベネット・フォディに関する連載を引用することはまさしく、そしてまたしても、連想や類推のたぐいなのでしょう。
なんにせよ、ここまで考えてきてわたしは妙に晴れやかな気持ちになりました。バランスの悪いゲームに挑んでいるのだと思えば、比較的明るく失敗できます。だってそれならもう失敗しても仕方ないじゃん。ひーこらいいながら、その都度の納得を自分なりに探していくほかない。
というかもっとシンプルに、「クソゲーにハマってる変わった人」だと自認していれば気持ちがラクなんですよね。「自己と深く対話している人」というペルソナ、わたしには高級すぎて……。
それに。
仮にそれがクソゲーだろうとプレイヤーはこだわりや矜持、愛着を持つものではないでしょうか。
ツェッテルカステンとはなにか。
別にカードゲームに当てはめて考えなくていいです。釣りだろうが山登りだろうが、おのおのが好きなように共通点や類似構造を取り出して考えてみる。でも庭いじりは……ちょっとありふれすぎてるかもしれません。本当に庭いじりが好きだったらいいですけど。
ツェッテルカステンを運用する(あるいはノートを取る)ということは「問い」と「とりあえずの決断」の繰り返しです。それはもう、痛切に感じています。自分がどういう人間で、どうしたいと思っているのか。その問いを何度も何度も突きつけられる営みです。
その問いをメモ術そのものにも向けてみる。道具を使う人間はその道具について批判的に考えるのが大切だと思います。すべてをいわれるがまま受け入れるのではなく。
私はみんなもっとツェッテルカステンのネガティブ(に思える)面についても積極的かつ率直に話をすべきではないかなと思います。
いや、メモ術にかぎらずですね。「文句や悪口をいえ」っていうんじゃないですよ。批判的に考えることから始まるポジティブさもあるんじゃないかなと。わたしはそう信じています。
www.youtube.com
Hiroko YamamuraのDJみたいにメモを繋げられたら最高だと思うんだよな……
ツェッテルカステン:AI時代に本当に学ぶ方法: 読んだことを持続的な理解に変えるシステム Actually Learn - JP
Zettelkasten: AI Jidai ni Hontou ni Manabu Houhou: Yonda Koto wo Jizokuteki na Rikai ni Kaeru System Actually Learn - JP (Japanese Edition) by Gabriel Anhaiaこれは比較的いい本でした。おそらくAIでカバー画像をつくったせいで誤字っていますが、中身は翻訳も含めてかなりまとも。
『
Atomic Habits
』か『
TAKE NOTES!
』でいいじゃんといわれればそうなのですが、アンリミでも読めるので。
書肆山田, 1999年11月, 12ページ ↩︎
とはいえ、実はこの記事の執筆にはツェッテルカステンをろくに使っていないのですが。 ↩︎
ツェッテルカステンといっても作法は人によってさまざまなのですが、そこに出典や自分の感想や意見なんかもいっしょに付け加えられている場合もあります。 ↩︎
もっと直接的に、使うメモアプリに備わったランダム表示機能を使って過去のノートを振り返る派閥もあります。ただ、その際も「自分がどうしてこの2つのノートをリンクさせたいのか?」をしっかり言語化しなくてはいけないようです。ツェッテルカステンは自分の意志というものを重んじているようなんですよね。なので今回の記事ではAIについても触れていません。 ↩︎
原義では「孤児」という意味ですが、ノートテイキング界隈においては孤立していてどこともリンクされていないメモを指す。 ↩︎
ここでも念のために補足しておくと、わたしは『Getting Over It〜』を高難易度ゲームだとは思っていますが、クソゲーだとは思っていません。先ほど書いた通り、この記事でのクソゲーとはあくまで「カードが増え続け、すべてが自分しだい」というシステムの要求過大さを指しています。 ↩︎
